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2014年8月23日 (土)

「楽園としての芸術」展(東京都美術館)

東京都美術館といやあ今「古代エジプト展」でしょ、と言いたい人もいるかと思うがオレは古代文明ものにゃ興味がない。いや、古代文明の話は好きだけどさ。それより、先週の舞台衣装「総合芸術」とは対極の、個人が一人黙々と完成させる芸術が今回の企画だ。ダウン症などの障害を持った人々の集う「しょうぶ学園」と「アトリエ・エレマン・プレザン」での作品群。美術教育を行っているわけではないので、これはいわゆる「アウトサイダー・アート」もしくは「アール・ブリュット」に属すると言えましょう。

ダウン症の人達は優しく争いを好まず共感能力が高いそうです。それゆえ、その繊細さにおいて現代社会にうまく適応できなかったりするそうです。作品制作においても絶対にじゃましないで。自分の世界だから壊してはいかんのです。アウトサイダー・アーティストのアロイーズが、晩年、売るための「指導」入ってしまい、才能が崩壊したという話も以前聞きましたな。

普段「なんちゃら美術展」とかに行ってる身で、アール・ブリュットの作品群と向き合うのは意外と難しい。なんとなれば、普通の「うまさ」が感じられない場合が多い。常々「プリミティブ」(芸術的初期衝動)が生み出すものに憧れていながら、いざプリミティブ以外の何物でもないものと対面すると、意外と冷めている自分に気づく。うーん我ながら嫌だねえ。もっと燃えて欲しいね。でもそこらの子供の描いた絵とそんな変わらん印象ってのも事実。でもまあ子供の絵こそプリミティブだもんなあ。

しかし諸君、その一見子供が描いたような絵を前にして、ちょっと何もない画用紙を思い浮かべてみたまえ。色彩や描線を使ってある種の秩序だった表現作品を創り出す、という行為とその完成品が何か素晴らしいものに感じられてこないかな。この「何もないところから生まれてきた感じ」を感じられたら、それがアール・ブリュット(生の芸術)の鑑賞じゃい。そしてそこに他には見あたらない才能を感じられたら、さらにラッキーだ。

今回の展示で目に付いたちょっといいものを紹介。下川智美のガラス瓶や缶に入った「きれいなもの」カラフルな糸や布。もはただのガラス瓶や缶ではない、という「嬉しい感じ」を鑑賞したい。冬木陽の絵の具作品もプリミティブで無邪気な描画が冴える。岡田伸次の色彩もちょっと天才的な感じがする。安澤美理の「体育館のステージ」はプリミティブに「おもしろい表現」を発見した楽しさに満ちている。とまあこう描くと、ここでは争いがないのだから、誰もがアーティストであり誰もが素晴らしいのだ。個人を選び出してはいかんのだ、と言いたい方もいると思う。でもまあ芸術ってやつは個人個人に合う合わないというのがあるゆえに、ここで名を挙げたのは、たまたま私の感覚にあっただけなんよ。そしてもう一つ、争いが無いといっても、そこは美術館に並べて出すわけなんだから、やっぱり作品の選び出しがあるはずよ。そしてもう一つ、私が気になったのは、展示作品に抽象性が高いものが多い。はて? 皆そんな抽象画ばかり描いているんだろうか? いやぁ、多分プリミティブな感覚に従えば、まず実際あるものの形を描くんじゃないだろうか。今回そういう絵はわずかだった。思うに、そういうのは「出してない」のだ。なんとなれば、それでは子供の描く絵と何も変わらんからだ。有償の美術展として成立させる以上、そこらのガキの絵と同じ感じじゃ困る。ひと味ぐらい違わなければならん……ってんで、より「それっぽい」抽象画を選び出したと私は推測する次第である。

この手の創造を、心底「素晴らしい」と実感したことがかつて一度だけあって、ありゃあもう十四年ぐらい前か、不眠で精神的に調子が悪かった中、リビングデザインセンターの……なんだっけな、左官だっけ、何か板か何かに色を塗る体験みたいなのがあって、私は参加しなかったが、その参加者十数名が黙々と色塗ってるのを目にして、おおそうだ、こういうのが「世界が破滅しない理由」なんだと強く思ったのです。あの頃の思考はあまり普通ではなかったが、でもそう感じたし、ある意味、当たっていると思うんだな。
http://www.tobikan.jp/exhibition/h26_havenofhappiness.html

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