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2015年6月29日 (月)

No Museum, No Life?(東京国立近代美術館)

もうコンタクトレンズをやめようと思っていて、明日検査したいから、今日はあんまし合ってないメガネで行ったんだが……やっぱあんまし見えねぇな……
さて、美術館で美術館辞典を美術品と一緒に見る、というような企画。いいじゃないか。よく考えたじゃないか。面白いじゃないか。ABC順にキーワードとその解説パネルがあって、それに関連する作品展示がある。マジメ一辺倒じゃなくて、ところどころ遊び心があるのも面白い。もちろん美術鑑賞にゃまず勉強だとかホザいてるキミでもオッケーさ。

AのArt Museumからスタートよ。Architectureで美術館の建築模型や絵なんかある。Archiveでは、デュシャンやフクルサスのまとめカバンを展示。なるほどアーカイヴ(まとめ)だな。Beholder(観者)では、ルーブル美術館のドラクロワ(だよな)を、見ている観客と一緒にとった写真作品。これが作品なんだな。あと等身大、というかちょっとデカい、穴から覗いている爺さんの人形がリアルでワクワク。何見てるのかな……っつーかなんで銃持ってるんだ。Discussionでは、なんと今回の企画のディスカッション結果が置いてある。それも展示パネルの構成模型と一緒。おお、今オレはこの企画のまさにここに立ってこれを見ているのか、そのこれがこれなんだな、という奇妙な気分になれるぞ。Earthquake(地震)では、美術館が警戒するものとしての地震。ここで阪神淡路大震災の写真。いきなりビルが倒壊しているヤツでスゲエ。あと免震構造の……なんだ、サンプル? Education(教育)のところ、なんと植物にABCを教える、という妙な作品を展示。こういうところが今回の企画の面白いところよ。Frame(額/枠)でも、枠を題材にした現代アート、だけでなく、額そのものを、ちょっと面白い展示方法している。現場で見よ。あと、Handlingでは、今回の企画の、壁の作り方(ベニヤを組み合わせて平面にして壁紙貼って作る)をビデオで記録してして、記録したところの壁に展示しているのだ。これも面白いですな。思わず壁紙の継ぎ目ってどこだ、とか見ちゃうよな。Hangingでは、絵を吊しているワイヤーなどを展示。Lightでなぜかグエルチーノのダヴィデの絵がある。なぜか、上を向いているのだ。ライトだから上に注目ってことらしい。グエルチーノもこう使われるとは思わなんだな。Moneyではシビアなお金の実状のパネル。なんと、ルーブルやMOMAに比べ、国立の五大美術館の収入ってめっぽう少ないの。企画展あんな高いのに? あんな並んでいるのになぜ? ……いや待てよ、西美のグエルチーノは客少なかったなあ……あとジャップは企業からの寄付も少ねえよ。Nudeはヌードいっぱい。理想化したヤツより、むしろリアルがアートっぽい。クールベさんのリアル路線もいいが、むしろ甲斐庄楠音のフルボディだな。Originalでは、ウォーホルやら、デュシャンのレディメイドやら。Provenance(来歴)では、梅原龍三郎特集……ルノワールの影響を受けて、それが来歴とか。それより、梅ちゃんったら、ナルシスから子供に成四ってキラキラネーム付けてたってよ。それからRecordで、河原温の日付絵画……の記録を付けたもの。Strageでは、各美術館に保管されている状態の写真パネルに、本物を一枚だけ置いて、面白い再現をしている。あとは……Wrapでクリストの包みものを紹介。Youはそのまま「あなた」よ。Zeo……ここには前回の片岡珠子展で使われたものが置かれ、夢のあとのゼロである。

知恵を絞った好企画。行って面白いぞ。
http://www.momat.go.jp/am/exhibition/no-museum-no-life/

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2015年6月20日 (土)

心のアート展(東京芸術劇場 ギャラリー1)

東京精神病協会主催で入院や通院している人のアート作品展。でも、いわゆるアウトサイダー・アートかというと、ちょっと違うところがあって、中にはちゃんと美術教育を受けた方もいる(「アウトサイダー・アート」っていうと、普通は美術教育を受けていない人が、自らの芸術的衝動で生み出した作品ってな感じなもんで)。あと、プロというか……あの吾妻ひでお先生がいてですね、私が会場に着いた時、出展者の自己紹介の時間で、ちょうど先生が自己紹介をされていた。わあ、本物を初めて目撃(以前、西武の原画展も行ったよ)。

いろんな人が参加しているので、選ばれていてもそこは玉石混交……というか、私好みのあるなしが分かれる。私としてはいかにも「精神を病んでる方が描きました」というような作品、ぐるぐるをいっぱい描いたり、人の表情がホラーだったり、画面全体がぐちゃぐちゃだったり、というのはあまり好きではない。かといって、「癒しの時間」みたいな毒も棘も痛みも感じないもんもスルー。あとどこかで見たような、草間彌生みたいなのは草間彌生だけでいいよ。……ってなことを考えると、おおっ、と感じるのは多くはない……のはまあ仕方ないです。

田村次郎という人のがまずイイ。水彩ながら細密という、それだけで不思議な感じがする。画題も具象系のシュールレアリズムのようで、好きだねこういうの。「汽車を押す自画像」いいですね。佐藤由幸って人の鉛筆画もいいね。バサラな感じ(?)スタイルで迫ってきますね。姫のコスチュームちょっと萌え系でいいね。大谷浩一「死と生の狭間」暗い画面と仮面のような顔、でもなぜか生きるための美意識を感じてしまう。「肉体の叛乱」は、これ、あの暗黒舞踏のあれかな? そして吾妻ひでお、マンガ「死にたいクラブ」。一ページの不条理ギャグ(美少女入り)。本当は生きてるのも辛いのかもしれないが、こうしてギャグに昇華する手腕というか、これが生きる道というか、軽さの中にもカルマを感じる(お、名言だな)。しかしなんですな、死と戯れている作者、作品ほど面白いんだよな。前も書いたけど、美術鑑賞ってなあ残酷なんだぞぉ。ゴッホもフリーダも、こないだの鴨居令も、迫る死(肉体的ばかりでなく)をヒシヒシ感じながら、それを作品に刻んでいったのです。それを我々は空調の利いた部屋でのんびり鑑賞しながら、終わったあと茶などシバいているのです。もっと姿勢を正して作品と向き合い、命とは、生きるとはなんぞやとか、自らに問うてみよと言うかもしれないが、それはもう哲学であって美術鑑賞ではないのですよ。美術鑑賞というのは、作品そのものが自分に与える印象を感じ取るただそれだけの行為であって、それ以上ではない……うーん、別に哲学もいいよな。いや待て、もっと簡単な例があるぞ。例えば虐待を受けた人が痛ましい作品を残したので、虐待を撲滅するために活動した場合、その活動は美術鑑賞には含まれないのだ。痛ましい~と十分感じながら、あとは何もしない。それが鑑賞者だ。戦争でも同じ。原爆の図を見たからって反戦活動なんぞするな。戦意高揚の戦争画を見て戦意を高揚させてもダメだっ……まあ、別に、そこまでキバっていろいろダメでもないんだけどさ、鑑賞者なら社会活動よりも、むしろ人の表現の多様性をより感じていった方がいいんよ。

今回、高村智恵子特集がある。おなじみ紙の貼り絵。私は安達にある智恵子記念館に行ったことがあるのだ。しかも2回も。うん、なんでかな。なんとなく行きたかったので。あの後ろの智恵子の森公園だったかな、あそこがいいよね。まあいいや。その記念館にも貼り絵が展示してあったんだけど、どうも写真っぽいんだな。本物は光に弱いようで。今回の展示も……うーんこれ写真じゃないかなあ、なんて思ったりしたんだけど、結局その場にいる人には特に訊かなかった。あと堀井正明という人、これはもう、病院通いしていたとしても、プロっぽい、よね。あと大下伸行って人のマッチ棒アートが細かい力技(ちからわざ)で魅せる。

そういえば作家本人が来ているところも多くて、そこらでおしゃべりしていたり。うん、私は誰とも何もしゃべらなかった。コミュニケーションは苦手なんだ。
明日まで。
http://www.toseikyo.or.jp/art/

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2015年6月13日 (土)

ヘレン・シャルフベック(東京藝術大学大学美術館)

うむ、初めて聞く名前だ。フィンランドじゃ有名画家だって。知らないんなら行こうじゃん……ってことで行ってきたのさ。

幼い頃の事故で歩行困難になって、その苦しいのがずっと続くのだが、キツい絵はそんな多くなくて、うん、最晩年ぐらいかな。でも最初に出ている「静物」が頭蓋骨があるヴァニタスなんだじぇ……ってかこれ描いたの15歳? 次の「雪の中の負傷兵」も18歳? うめえなこんちくしょう。「リゴレット」もなかなかいい爺さんの……どーでもいーけどよー1500円も払ってんだから無反射ガラスぐらい奮発して展示してくれよー こっち側が丸見えじゃねーかよー まあ絵によるみたいだけどさ。しばらくいろいろあって「母と子」ふふふ子供をだっこしてる母子萌えだな。それから「快復期」という絵があって、病み上がりの子供。一応本人の心情も反映しているようだが、絶妙な表情をしているね。なんちゅーか、病気がよくなってよかったんだけど、まだちょっと不安でもあるなーって感じか。あとは「断片」というフレスコ画っぽいのがなかなか。「鎧を着た少年」これも表情がいいですね。少年っぽくないというか。なんかお悩み中っていうか。

風景画もあってね「フィエーゾレの風景」。これは、あー風景かーってスルーするのはもったいないゾ。抽象モードで見ると結構イイっ! 抽象モードっていうのは、何の事物が描いてあるかを除外して、その絵の色彩やら形やら質感やらをあるがままに感じ取ることである。考えるな感じるんだ。君のゲシュタルトをブッ壊せ。抽象画ならハナっから事物が無いから、この見方をするのは比較的容易だが、世の中、事物が描いてあっても抽象画的に感じることができる絵が少なくないぞ。モネとか普通にそうだしな。あと問題として、そのことは作者が意図していたとは限らないのだ。作者は自分の作品について全部を理解しているかというと実はそんなことはないんで。オレもそうなんだけど、展覧会場に作者(や関係者)のお言葉なんか書いてあると、ははー、そういうもんかと思ったりしちゃうが、実はその作品の魅力は全然違うところにあったりしてな。特にバルテュスなんかそうだったりしてな、本人と夫人の言うことは、てんでミスリードだったりしてな。だからー、オレとしてはー、勉強や予習やイヤホンガイドも結構だけど、ホドホドにしとかないと作品の本当の魅力を見落とすかもしれねーぞって言いたいわけよ。オレは予習もしないしガイドも使わないぜっ……まーほんとは頭使うのが面倒なだけなんだけどさ(ミもフタもねーな)。

さて「お針子(働く女性)」はホイッスラーの「母の肖像」リスペクト作品。「ロマの女」これがなんとまあ、19歳年下の男が理解者で交流していて好きだったんだけど、その人が婚約しちゃって、凹んだ時の作品。うん、ダークだよ。もっともこの時点でシャルフベック何歳だ、57歳? マジすか? いい歳じゃないか。それから肖像とか自画像いろいろ。「黒い背景の自画像」は、フィンランドの何とかから依頼されて描いたとかなんとかで、男の婚約前だからまだ顔色がいいな。それからラフな感じの肖像「ナンナ」とか「アップルガール」とか。あとマリー・ローランサン風の肖像もあり。それから凹んでいた時にキャンバスに切りつけちゃった自画像とか、やっぱり芸術家だなあ、みたいな。

晩年にはエル・グレコに魅力を見いだし「天使断片」とか写す。「慈悲の聖母」がいい感じに聖母している。最晩年は自画像と静物。おっとこのパターンは我が心のフリーダ・カーロと同じだ。でも全く描き方が違うんだな。フリーダは死が近いからこそ生き生きした生命をキャンバスに描こうとした(Viva la Vida!ですな)。対してシャルフベックは衰えゆく自分をそのままに描き、静物なんかも生命感が抜け落ちていく感じの色彩だ(「かぼちゃ」ってのはまだ色彩があるが)。自画像も衰えるままに衰えて崩れていく。これはメキシコとフィンランドの違いか、あるいはフリーダ五十代、シャルフベック八十代の違いか。

まあ激混みすることはないだろうから、君もじっくり対峙してみよう。
http://helene-fin.exhn.jp/

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2015年6月 7日 (日)

新潟市美術館の名品たち(目黒区美術館)

昨日行ってきたが今日までなのだ。なもんでこうしてわざわざ書いたからどーというものでもないんだけど、いや、カリエールが結構あるようなウワサを聞いたような聞かないようなだったんで行ってみたんだけど、カリエールは1枚だけだった。

そのカリエール「母と子」はおなじみのテーマ、おなじみのセピア色っつーのかね、もっと濃い色だな、その画面。おなじみの人が溶け合っているようないないような表現。おなじみじゃないのは赤ちゃんがカエル妖怪(?)みたいに見えるような見えないようなだな。有名どころでは、ピカソ「ギターとオレンジの果物鉢」は、なかなか厚塗りな感じでキッチリしているようなしていないような。マチエール良し。エルンストの「ニンフ・エコー」も初めて見る。エコーって確かギリシア神話で、相手と同じ言葉しか言えなくなっちゃったヤツだったと思うが、絵の中のどれがエコーだか、全体が草っぽくてたまに生き物だか女体だかが隠れているような感じ。いや、面白い絵ではあるよ。エーリヒ(アリク)ブラウアー「かぐわしき夜」も夜の中に人がいるようないないようなでかぐわしくキラキラしている、これもシュールレアリズム系か。あとボナールの水浴裸婦とか。ルドンとかロダンとか。日本のになると、抽象画が多い。ううむ、何だかよく分からぬ。難波田龍起ぐらいは知っているが。辰野登恵子いいね! 青い丸がドカドカある感じで。そういや個展行ったような気がする。辰野にせよサム・フランシスにせよ、同じような感じの抽象画ばかり描く人は、いろんなヤツのある中で1枚だけ見るとすげーいいんだけど、まとめて何十枚って見ても同じようなのばかり並んでいるもんで、あんまりいいと思わないんだよな。そうそうモンドリアンとかもそうかもしれん。あとは寺田政明「灯の中の相談」うん、なかなかいいね。この犬みたいなの。

それから「新潟に息づく作家たち」ってコーナー。普段あまり目にできないニーガッタの作家にユーガッタチャンスな。ううむ、何だかよく分からぬ。先週の鴨居玲が凄すぎたので、ありきたりのモノでは何も反応できぬ。佐藤哲三郎「下萌」おお、裸婦だな。萌え系じゃない。なんかその、そこらにいた割とスタイルのいいオバチャン(って年でもないのかな)をモデルにしちゃいましたって感じが面白いな。加藤一也「月夜」これルオーのあの感じをやりたいのかな。小林力三って人が集めた絵があって、これが劣化ゴッホみたいなのばかりで……いや、多分ゴッホをやろうとしたわけじゃないんだよこれ。でもオレは筆跡残るこの手の自然風景とか見ると全部あの原色のゴッホが基準になっちゃうもんで、普通の色じゃ満足できねえだ。

目黒区美術館と新潟市美術館は、コレクションに似てるところがあるってんで、その並列展示。相笠昌義「ア・ヴィダ・エン・マドリ」ほほー、「マドリードの人生」だな。しかし、なんかバルテュスの街角の絵っぽい雰囲気。いや、一応もっと普通だ。人も多いしな。しかしここで、バルテュスを思い出し、アタマん中で比較してみると、バルテュスがいかに普通じゃないかがひしひし感じられてしまう。同じ相笠昌義の版画集「女・時の過ぎゆくままに」。こっちの方が人の存在感がありありでいい感じだ。これ目黒区美術館が持ってるのね。

下の階に行くと、現代アート。草間彌生「終わりなき愛」はのぞき込むと無限のボツボツ突起物。「自己消滅」は棚にあるモノが全部赤い水玉になってる代物。これ新潟が持ってるのね。篠原有司男はギンギン、元永定正はダラダラ。うん、なかなか面白いじゃないか。

今日までだ。
http://mmat.jp/exhibition/archives/ex150411

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2015年6月 1日 (月)

鴨居玲展(東京ステーションギャラリー)

ひさびさに凄い画家に出逢えたものだ。なんで今まで知らなかったんだろうか。まとめて見る機会が無かったからかな。

初期はシュールレアリズムみたいな絵を描き、41歳で自分のスタイルを見つけ、スペインで絶好調だったが続かず、パリに行き、日本に帰るも、結局新しい道を見つけられないまま苦闘の末自ら命を絶つ。スペインでのスタイルも優れているので、そのまま続けていたとしてもよかったんだが、苦悶の中で生み出された自画像がまたいい……って美術鑑賞は残酷なんだぜぇ。

冒頭の自画像も内面描写風で結構いいんだが、まず初期はいろいろ試行錯誤してる感じ、印象派っぽい「婦人像」やシュールレアリズムの「月に吠える」「月と男」「赤い髪」、中でも「鳥」2点はそのまま突っ走っても面白いスタイルだ……ちょっと無難かな。「時計」「蠢く」「赤い老人」の赤いスタイル、パッと見これも衝撃的で、世の中こういうスタイルを一つ見つけたらそれだけやって終わっちゃう画家も多い。でも鴨居は違う。赤いのはここで終わり(晩年の赤い背景のは印象がずいぶん違う)。抽象もシュールもピンとこなかったのか、我がスタイルとしたのが「制止した刻」から始まる人物。男だ老人だ。なんとなく醜い顔だ。ちなみに鴨居自身はイケメン。「蟻と老人」とか見ていると、うーん、なんか「ゴリラ」だよな。全体に画面も暗いし笑ってないんだけど、人物にちょっと愛嬌が見える。顔がいかついゴリラの愛嬌みたいな感じだ。

スペインに行って、そこの人々との交流で筆が生き生き。特に酔っぱらいとか、老人とか、怪我を負って兵役を終えた人とか。弱いというか虐げられたというか、疲れたというか、そんな人達にえらく共鳴している。「私の村の酔っぱらい」「廃兵」なんてそうした絵の大作だ。暗い、そして辛そう、若くない、でも絵は決して冷たくないってのが不思議だ。あと「何で戦場に送ったんだ」みたいな「怒りの告発」でもない。「おっかさん」は老婆が若くない息子を叱るちょっと面白い(老婆息子がリアルなだけに)絵。サブタイトルにもなった「踊り候え」も暗い中、老人が踊る、というか踊っているつもりで動いているだけかもしれないが、それでも「踊り候え」なのだ。いや、そうだ。これこそが生きることだ、なんて言葉が聞こえてきそうですな。「蛾」や「風船」もそれに反応する老人。しかし……彼らが心の拠り所としている教会ってヤツが鴨居には相容れなかったようで、「教会」という作品がいくつもあるが、どうも妙だ。窓のない石のミニチュアみたいだったり、緑がかった画面で傾いて立ってたり、果ては宙に浮いてたり、シュールレアリズムでもイケる描画力があってこそだが、結局教会をいくら描いたところで宗教画に走ることもできない鴨居はヨーロッパをあとにする。

帰国して神戸に住むようになり、新しい題材を探して裸婦なんかを描く。「ETUDE(A)」「ETUDE(B)」でも、どってことなくてやめちゃう。「石の花」という男女がぴったりくっついてるのがあるが、あれ、これムンクか誰か描いてなかったっけ。モノクロで。「望郷を歌う(故高英洋に)」は韓国の人が高らかに歌っているが、唯一ポジティブな力強さ。あとの絵はもう苦しい。次の道が見つからない。老人などは描けるが、結局描いたって過去の焼き直しだよなあってことで落ち込んでしまう。それで描くものがなくなって苦しんでいる自分ばかりがリアルなので自画像を描く。「宴のあと」とか「ミスターXの来た日 1982.2.17」とか。中でも「1982年 私」は大作だが悲壮極まりない。真っ白なキャンバスの前の鴨居は生気が失われ、死相が出ていると言ってもいい。それを囲むかつての作品の人物達。どれもうまいだけに困ってしまう。もう描くものが見つからない。痛々しい絵なんだが、困ったことにこういうのが鴨居の傑作なんだな。あと「酔って候」って絵があってね、酔ってる老人だけど、魅力的ですごくいいんだよね。これ苦しんでる時期に描いているんだけど、職人的にこういう絵は描けるんだし、この路線で安住していればよかったのにねえ、あまりに「アーティスト」だったんだな。「出を待つ(道化師)」も深いじゃないか。そしてこれは背景が赤い。解説にはこれが新たな道じゃないかってあったけど、うーん、そうかもしれないし、そうでないかもしれない。いずれにしてもこのあたりで人生も終わりにしてしまう。

あとデッサンがある。別に書くことはないが、なかなかいいよ。
しかし、絵の紹介を文章でやるのは難しい。これはマジ「行き」だ。行って見て候え。
http://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/201505_Rey_Camoy_Retrospective.html

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