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2015年10月26日 (月)

アインシュタイン展(東京理科大学)

今年はアレルギーがひどくなったんだか年齢のせいで涙液が足りなくなったんだか、とにかく春以降コンタクトレンズがしていられない日が続き、とうとう初夏頃から終日メガネになった。がしかし、あまりよく見えねえ(超強度近視なのだ)。年齢とともに、老化というか死に向かって体にガタがきてるというのが実感される。
死んだらどこに行くのか? 一応、とりあえず、生まれ変わるんじゃないだろうか。実際生まれ変わるのかどうかは分からないんだけど、少なくとも今自分が生きている限り、自分が他人として生まれることは絶対ない。しかし自分が死んだら、自分の「魂」は、他人か他の生命体として生まれる可能性はあるんじゃないだろうか。
とはいえ、意識やら自我が、脳内の電気信号によるシステムであるので、ケガなどの損傷で信号が欠損したらシステムが壊れてしまう。脳の一部が損傷した結果、人格が変わっちまった、なんて話を聞くと「魂」なんてやっぱし存在しないんじゃないかなー、という気もするわけ。 

なぜ私どもは、自我を持ち、意識を持っているのか? 単純なことを思いつく。つまり、その方が生き残った結果だからではないだろうか。さらに、宇宙が生まれて以来の全ての現象は、時間が流れるに従って残ったものの結果に過ぎないのではないだろうか。宇宙の物質は様々に変化してきたが、その課程で、生命として振る舞うものが、生命ではなく振る舞うものより、残る確率が大きかった。同様に、意識を持つ生命体の方が、持たない生命体よりも残る確率が大きかった。また、自我のある意識の方が、持たない意識よりも残る確率が大きかったに過ぎない。こう考えると、この宇宙での事象は全て「結果に過ぎない」に集約される。「見えるもの全て」は「変化する場での結果」。これまさに、仏教の「色即是空」ではないか。全ては変化する場である「空」なのだ。うむ、さすが仏教。これは割としっくりくるんだが、単なる結果だなんて何か虚しいと言えば虚しい話ではないか。
じゃあ逆の「空即是色」とは何だ? 宇宙が変化する場である限り、あらゆるものは生まれうるであろう、という話……なんだけど……そもそも宇宙の誕生ってなんだったんだ? ビッグバンか? ビッグバンって何だ? 宇宙では何が起きているのか? さあ、そこで我らのアインシュタインですよ。

ここでやっと理科大での展示の話だ。展示を見たが、文字による解説が多い。書簡などの自筆のコピーも展示していたが「E=mc^2」の手描き文字以外なんとなくしか見ておらず。PCによるニュートンとアインシュタインによる惑星の動きのシミュレーション……はなんとなく分かるようなそうでないような。神岡にある重力波検出望遠鏡「KAGRA」のビデオが一番分かりやすくて面白かったな。あ、あと子供の頃のアインシュタインを描いたマンガ(マンガ好きの学生が描いたのかな?)もある。あちこちで手作り感のある展示がイカすが、相対性理論が分かりやすかったかというと微妙だ。重力により空間が曲がることや時間の進み具合が変わることは知ってたもので、そうそう、この展示とは直接関係ないが「一家に一枚 宇宙図」という今分かっていることを1枚で説明したポスターが貼ってあった。これは面白い。ネットにあって誰でもダウンロードできるぞ。あと、常設展として、昔のパソコンなんかあり「PC-8001」だの「FM-8」だのというオレにとって懐かしい面々に会えた。地下の数学体験館は、体験施設で子供から大人まで面白いんだけど、結構混んでるのね。

アインシュタインの見つけた時間が伸びたり縮んだり相対的だ、というのは実はとんでもないことなのだ。というのも、一定に進む時間が宇宙空間を流れているわけではなく、個々の物質やらエネルギーが時間というものを所有しているってことなのだ。ビッグバンで生まれたのは、時間そのものであったという説。その前には時間も空間もなかった。じゃあ、なぜ宇宙は生まれたか? 一説に、宇宙には「意志」のようなものがあり、自己を認識したかったからビッグバンを起こし、宇宙を産んだのだ。その結果、宇宙を認識できる「人間」が生まれた。そう、実は宇宙は人間を産むためにできたのだ、という話がある。これ「人間原理」というのだ。なかなか面白い話ですね。まあ環境破壊しつつ他の生物をもおびやかす人間ってぇヤツが望まれた存在でなかったとしても、何らかの知的生物が望まれていたのではなかろうか。それは人間とは限らないけどね……と、この企画に行った帰りにブックオフで買った桜井邦朋「宇宙には意志がある」なんぞに書いてある。

しかし、宇宙に意志かあったからと言って、最初の、死んだらどうなるに関係するかっていうと……我々の意識や自我がどこかにキープされるわけじゃないだろうしなあ。ちなみに、何か偉大な存在が生命をデザインしたとかいう「サムシング・グレート」だとか、「ID理論」だとかは、なんか違う。人間は実に精巧なシステムだが無駄も多い。足の指とか髪だけ伸びてくとか、盲腸の虫垂とかいらんでしょ。あと、なんでオレたち常々服着てなきゃいかんの? 偉大な存在とやらが、衣服も文明であるから人間は裸じゃいられんようにデザインしたとはとても思えないぞ。だから宇宙の意志がかかわるとしたら、出だしのビッグバン部分での、光速がどのくらいとか、なんたら定数とかのパラメータ設定であって、あとはダーウィンの適者生存に従って残っては進化してくのだ……きっとパラメータ設定でうまくいかなかった、生命も星も何もない宇宙が、その宇宙意識の周囲で死屍累々としているに違いない。……いやいやだからって我らの自我は死んでどこに行くって答えにはならん。

しかしだ、自我が脳内の電気信号システムだとしても、じゃあ、なぜ我々は電気システムつまりコンピュータつまり機械のように思考しないのだろうか? 合理的でも利己的でもなく、種の保存目的でもなく、気分的に行動したりするのか? そりゃ生命だからでしょ。ゾウリムシだってその動きはランダムというか生命っぽい(?)し。つまり生命というなんか気まぐれに自立しているベースがあって、その上に脳の電気信号システムが構築されているとすれば、じゃあ、その気まぐれ部分って何だ? やっぱり魂みたいなもんがあるんじゃーないの、という考えも出てくる。

ともあれ、私の宇宙への旅はまだ始まったばかりなのだ。
https://www.tus.ac.jp/info/setubi/museum/main/event.html

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2015年10月22日 (木)

プラド美術館展(三菱一号館美術館)

誕生日は会社が休みをくれるんで、行ってきた。広告にゃヒエロニムス・ボスがどーん、ゴヤだグレコだルーベンスだっちゃあ期待しちゃいまんにゃん。この企画はプラドでやりバルセロナでやり東京に来たのさ。で、現場に行っただ……ん、なんかちっこい絵が多いぞ。それもそのはずで、巨匠の小さい絵で再発見みたいな企画なのだよ。そもそも三菱一号館って、巨大な絵は展示できないし、部屋が細かく分かれているので、小さい絵の展示に向いてる……んで、こういう企画をよくやってるんだどん。いや別にそれはそれでいいんだけど、広告がなんか立派なもんでね、巨船みたいなヤツを期待しちまうんよ。

最初は中世後期とルネサンス・。「聖カタリナ伝説の画家」の表裏になってる「聖母の婚約」と「苦しみのキリスト」がいいよな。表情のね、なんか冴えないところがね。ヒエロニムス・ボスの「賢者の石の除去」がいきなりある。男の頭から石を取り出してる怪しいヤツ。雰囲気はボス。でも意外と小さい。上下の字が目立つ。それより隣の、偽ブレス(誰?)の何とかって絵がいいな(三枚組なんてたおつおみうっm
トル写すのめんどくせえ)。あのう、後ろの建物とか人とか。メムリンクの「聖母子と二人の天使」はきれいどころで。

次はマニエリスム。ティツァーノの「十字架を背負うキリスト」これは定番っぽい。エル・グレコが2つ! ……ち、ちいせえ。いや、別に決してダメな絵じゃないんだ。「受胎告知」なんてなかなかよくできてるし、ほら、左下のマリア様は例のアレの縮小版みたいで……でも、なんだかなあ。もっとこう……眼前にグッと迫ってほしいという思いがヒシヒシよ(そういう受動的態度じゃいかんのだが)。

バロック。ティントレット「胸をはだける婦人」文字通りだが何ではだけてなきゃいかんのだろうか。それよりティツァーノとティントレットとティエポロって誰がどこの誰だが頭の中でゴチャゴチャなんですけど。それからグイド・レーニ。「聖アポロニアの殉教」「祈る聖アポロニア」さすがグイド先生。小品でもイメージが明確で分かりやすい。殉教の絵は刺されてても痛くなさそう。まあ痛そうじゃ見てられないだろうが。グイドは「花を持つ若い女」というのも出てるがこっちはイマイチ。ムリーリョ「ロザリオの聖母」これは……いいね。聖母が近所のきれいどころの若いお母様みたいで。変に神っぽくない。ルーベンス「聖人たちに囲まれた聖家族」小さめの絵だが、人の配置が絶妙な感じ? 静物もいくつかあって、中ではファン・バン・デル・アメン「スモモとサワーチェリーの載った皿」このチェリーの透明感がたまんねーよな。

17世紀。クロード・ロラン「浅瀬」理想風景の人。うむ、普通だ。つひはおおベラスケスだっ! 「ローマ、ヴィラ・メディチの庭園」……マニアック過ぎる。これがベラスケスとして何がいいのか分からぬ。ヤン・ファン・ケッセル(1世)「アジア」これがなかなかいい。小さい動物画の組み合わせ。蛇はキモい。イカもキモい。カエルがいる。魚もいる。獣もいる。サイは鎧で固めたあのサイだ。まあ、どこがアジアなんだか分からないが。ヤン・ブリューゲル(2世)「豊穣」なかなかいい絵だが、真ん中の女にオッパイが6つある。ピーテル・フリス「冥府のオルフェウスとエウリュディケ」怪物がナイス。ダーフィット・テニールス(2世)「猿の画家」「猿の彫刻家」再会だよな……どこかで見たよな。ピーテル・ブリューゲル(2世)「バベルの塔の建設」これはあの1世の有名な絵と同主題で概ね同じ感じ……なんだけど、明らかに格が低い。何がって、人々はまあそれっぽいけど、塔そのものが構造的にダメな感じがする。神様に破壊される前に自壊するであろう。1世はもっとがっちりしたワクワクできる構造体だったぞ。あとスケール感もなんとなくおかしい。

18世紀ヨーロッパ宮廷の雅。ってこれロココのことだけど、バキバキのロココ画はない。ヴァトー「庭園での宴」もちょっと暗め。コッラード・ジャクイント「イフィゲネイアの犠牲」これもロココだそうだが……ちょっと違うな。アントン・ラファエル・メングス「マリア・ルイザ・デ・パルマ」女性のバストアップ。なんちゅーか……口の達者な女みたいな、あるいはファッション雑誌なんかで、ものすごくその気になっているモデルみたいな、いや、なんか男のオレは引いちゃいそうな感じっていうか。フランシスコ・バイェウ・スビアス「オリュンポス・巨人族の戦い」スケールのデカい絵だ。天井画の下絵で大きくはないが。

そしてゴヤ。おお、ゴヤ。さすがプラド。「レオカディア・ソリーリャ?」肖像画。普通にうまい。「トビアスと天使」手堅い……どこかで見た。「目隠し鬼」ロココ風もできるぜ。「酔った石工」酔ってるのか。「傷を負った石工」酔ったのと同じ絵の拡大版……ってことは酔ってるんじゃないのか。「アルバ女侯爵とラ・ベアタ」これが今回のゴヤの中では一番いい。ゴヤらしいダークサイドにちょっと足突っ込んでる。黒髪しか見せないで迫る女が不気味だぜ。

19世紀。エウヘニオ・ルーカス・ベラスケス「魔女の夜宴」ゴヤをリスペクトしていたらしいが……もちっとちゃんと描いてくれ。イケる主題なんだから。イグナシオ・ピナーゾ・カマルレンチ「ファウヌス(子供のヌード)」ぬぁに? どこが子供でどこがヌードなのだ? フランシス・ドミンゴ。マルケース「眠る猫の頭部」普通にカワイイにゃ。マリアノ・フォルトゥーニ・イ・マルサル「日本式広間にいる画家の子供たち」うむ、まあまあなかなかの絵だ。

小品でたどる歴史。能動的態度で鑑賞すりゃあ発見もあるべ。
http://mimt.jp/prado/

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2015年10月19日 (月)

写実って何だろう?(ホキ美術館)

行きたい行きたいと思って、やっぱ遠いもんでなかなか行けなかったこの美術館。ついに先日土曜日に行ってきた。写実絵画が専門のデカい美術館だぞ。
ちょうど企画展の解説トークに行き当たり、これまたちょうど……というか、奇しくも、というか、ここの重要なコレクションであり(まるまるワンフロア大量展示)、巨匠でもあった写実画家、森本草介が亡くなったというニュースが飛び込んできたそうな。もちろん……はい、私の知らん画家でぇ、なにしろ写実は磯江毅ぐらいしか知らんもので。っていうか、磯江がいたからこそ、写実絵画を見に行こうという気になったものです。
前々から私は「写実は本物そっくりの絵を描きたいという初期衝動すなわちプリミティブの一種」なぁんて書いていたんだけど、どうもそう単純じゃなさそうですなあ。写実といっても結構その表現も多様なのです。
そもそも「写実」ってなんぞや、と思うに、「あー写真みたいなヤツでしょ」と思うかもしれんが、まず写真と違うのは、ピントが無いのね。写真は対象物にピントを合わせその前後はボカすんだけど、写実絵画はまずそれをやらない(まあ、やるのもあるだろうけど)。写真にはパンフォーカスという全部にピントを合わせる技法もあるが……実はそれだと遠近感が出ないという(今日のトークによれば)。で、私としてはそれよりも、いくら写真がパンフォーカス高密度であろうと、1、2メートルも引き延ばせばやっぱりエッジはどこかボケていて「ああ、これレンズだなあ」と感じてしまうであろう。写実絵画はそれが無い。どんなデカい画面でも細部までシャープに表現できる(えー、もちろんしない表現もあるだろうけど)。
一方人間の目に映る「本物そっくりに描く」も写実絵画じゃないんだなあ(これもトークによる)。なんたって人間の目は2つあるし、カメラと同じくピントもある。だから人間の目に映ったそっくりも、実は描けないんだな。要するに、写実絵画って「本物そっくりなんだけど写真とも人の目とも違う何か」であり、その悪魔的とも言える「何か」に魅了されたのが写実画家なのだ。

という前置きはさておき、「ギャラリー」と称するエリアが大小9つある。あと、構造上中空になっているところもあって、外から建物を見ると結構壮観なんだな。
最初のギャラリー1が今回の企画の部屋(11/15まで)……ったってまあ、今回は「写実って何だろう -その多様性と可能性-」ということで収蔵品のベストセレクションみたいな感じです。
最初が野田弘志「摩周湖・夏天」、解説トークによれば「重さを描きたい」とかで、厚塗りをする。このマチエール(質感)込みの「写真っぽくなさ」がいい。それから小尾修「Kay」という人物画。解説によると、ルーブル美術館のレンブラントを独占して(そういうシステムがある)じっくり模写、古典技法から学んだものを生かしているとのこと。これも塗ったところに傷を入れたり、単なる写実的なキレイさとは違うものが出ている。吉田伊佐「蒼流」滝の絵なんだけど、アクリル絵の具を使っている。透明感のある塗り重ねができるが、乾くと縮んで平面的になり、モッコリという表現はできないそうな。石川和男「海風を歩む」海と広い空と歩く人、いい風景だなあ。大矢英雄「海の記憶に」テンペラ絵の具を使用。油彩とはまた違う質感。島村信之「籐寝椅子」寝椅子の女性が窓からの光に照らされている様子。こういう時の窓は北窓なんだって。日光は強すぎるそうな。石黒賢一郎、3人の女性というか2人女の子。エヴァンゲリオンの綾波とマリとアスカをモチーフにしてるらしいが、髪飾りでそれを彷彿とさせる程度で、別に普通の肖像でもある。それよりこの人、テクニックがものすごく、目を近づけても絵の具も筆跡もサッパリ分からない、見た人は誰も、これ写真じゃねえの? とかついつい言ってしまう。解説では、下の階にこの人の描いた黒板のものすごいのがあって、何人もの画家が見に来たが、どうやって描いているのか分からないと。また島村信之「ロブスター(戦闘形態)」これ、一番人気の絵らしいが、画廊に展示されていた時は売れてなかったそうな。ロブスターが赤いのは茹でて食べたから、だって。もちろんリアルでデカい。藤井勉「追想」女の子はきっちり写実で、背景の枯れ葉をちょっと絵画風に。うん、こういうメリハリがあるとまたいいですな。同じく「生」も真ん中の木に存在感をバッチシ与える手法。五味文彦「レモンのある静物」解説によればレモンはガラスの反射屈折よりも難しいんだって。色が。でももっと難しいのはザクロなんだそうな。他にもたくさんあるのだが、とりあえず、こんなのがギャラリー1。

ギャラリー2は全部森本草介。ちょうど朝、亡くなったニュースが飛び込んできたそうな。とにかく「写真では出せない何か」がそこにあると思わせる。風景の独特の色合いというか、空気感のようなものがいい。人物は割と普通に写実だなあ、と思う。

ギャラリー3は、圧塗りの巨匠、野田弘志から。「蒼天」という巨大な風景画。これ実に「絵の具」を感じさせる。それでいてなお「写実」なところが面白い。「オロフレ峠」は木々の表現が超現実っぽくて好きだな。ここでバカテク石黒賢一郎「存在の在処」これが……噂の黒板。いや、人物の背景ではあるが、確かにナンジャコリャというぐらいスゲエ! だって黒板を消して白いのが少し残ってるとか、チョークで書いた文字そのままとか、それを絵の具で描いてあるんだぞ……いや、どうして液体の絵の具で、固体(チョーク)のあとを忠実に表現できるのだ? もうバカテク。神業のような表現力。永山優子「Man is」ええと、女性ヌードだよな。モデルがナイスバディじゃないんだけど、容赦なくそのまま描いちゃうクールベさん流。

ギャラリー4は、小品。石黒賢一郎「QH-EDO3」この「QH」は「キューティハニー」に違いない。アニメにインスパイアされてるそうな。

ギャラリー5は、陶器コレクション……なもんで猫に小判だにゃ。全部パス。

ギャラリー6は中山忠彦「花飾りの帽子」。描き方が写実っぽかったルノワールみたい。そういう絵があるの。

ギャラリー7は、原雅幸特集。ギャラリー1でも1点出ていたが、風景画で全部にピントが合っているいわばパンフォーカス。それでいて遠近感もちゃんとある。「マナーハウス」「遠声」「ドイル家のメールボックス」いずれもスゴい。

ギャラリー8はそれぞれに音声解説付きでいろいろ面白い話も聞けるのだが、もう疲れてきた。今まで出てきた大矢英雄、石黒賢一郎、小尾修、原雅幸、野田弘志、森本草介など、ここまで来るともうおなじみメンバーな感じがしてくる。

最後のギャラリー9、磯江毅が2点。この人がいなければここには来なかった。

というわけで、遠いもんで一回行けばいいかな、とも思ったが、また行きたくもあるな……
https://www.hoki-museum.jp/

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2015年10月12日 (月)

月映(東京ステーションギャラリー)

「つくはえ」と読む。美術学生であった田中恭吉、藤森静雄、恩知孝四郎が1914年から1915年に出した詩と版画の雑誌。知らなかったし、あまりにピンポイントな企画なもんで、期待もそこそこだったが、これはなかなかいい。ピンポイントでやる理由も分かる。

簡単に言ってしまうと、田中が結核持ちで死にそうだったのと、藤森の妹も亡くなってしまうのとで、その作品群はモノクロ木版画でありながらひたすら暗く深く死の影をともなって迫ってくる。田中は追いつめられ、その影響で藤森はひたすら内省的で、恩知は抽象でも表現する。ただの版画集ではないのだ。

最初は「月映」以前の回覧雑誌「ホクト」や「密室」の紹介。「曇り日の負傷」で田中のムンクがかった孤独な人物+パース表現が早くも炸裂。田中「ある日の恐れ」「赤き死の仮面」これらもムンク好きならゲッツだ。

で「月映」が誕生。名前を決めた田中の書簡あり。最初は私家版で、あとから機械刷りの公刊「月映」が登場するんだけど、最初は私家版のほう。とはいえ、いきなりトップギアでぶっ飛ばす感じで、田中「死の支配者の微笑」とか、「生ふるもの 去るもの」とか「焦心」とか迫る。藤森の明るく孤独な「かげ」とかも……いや、実はタイトルはメモってあるが、どんなんだったか覚えてないのが多い。いや、もちろん再会すれば、ああこれこれって思い出すんだけど。波がキレてる恩知「うみのさち」、ヤバめに空をあおぐ田中「あをそら」、スピリアールトの暗い絵みたいな藤森「よる」……ってこういうの見てたらスピリアールト見たくなったな。また展覧会やらないかな。目だけで訴える恩知「泪」。シンプルな心の表現、藤森「心のながれ」。藤森「黒き手」はちょいエッチだ。恩知の「裸形のくるしみ」が苦しい。

機械印刷の公刊が登場。私家版作品の機械印刷バージョンがいくつも。藤森「夜」はこっちのほうがよく見える。恩知「夏日小景」はなんか子宮っぽい。田中「ひそめるもの」男女と太陽。藤森「夜のピアノ」寂し~い。田中「冬虫夏草」人の背中から草生えてる。「月映Ⅰ」から「月映Ⅲ」と出て、Ⅳの時藤森の妹が亡くなってしまい、「死によりあげらるる生」などと書いてますますディープに。田中の「埋葬」がもう苦しい。恩知も抽象を進め……って、この辺でメモを取るのもどうでもよくなってきた。何しろ相当の点数があるもんで。要するにこの調子が続いて、「月映Ⅶ」まで行くが、この辺で田中が亡くなってしまう。若干23歳。詩人、荻原朔太郎が、「月映」を見て、詩集の挿し絵などを田中に依頼してたが、亡くなったんで頓挫……するもあらためて恩知に依頼し、田中の絵も含めて「月に吠える」を完成させたとのこと。

にしても見ていてつくづく「若き青春の悩み」だよなあ、と思う。暗く深く切実かつ、世界と対峙している魂の悩みなのだ。年食ってしまうと、こういう悩み方はできない。いや、しているヤツもいるし、してるふりをしているヤツもいるだろう。でも人間、すいもあまいも分かってくると、あまり苦しまなくなってくると同時に、何かを失ってくる。なんちゅーかな、魂が汚れてくるんだなあ。オレも詩や小説を書いたりはするんだが、若い頃のようなもんは書けない。実は書きたい。でも書けない。そういうふりをすることはできるかもしれないが、やっぱり切実さというか、何かが本質的に違う。つまり若者は大いに悩み表現するべきだし、年寄りは若作りすることなんて無駄なんだから諦めっちまいなさい。あーオレはオワコンだなあ、とつくづく思うよ。最近何も生み出してないしな。でもまあ、年輩には年輩にしかできん技もあるはずだ。だからオレもがんばろう……とグチで締める。

とにかく行って損はないぞ。
http://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/201509_tukuhae.html

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2015年10月10日 (土)

春画展(永青文庫)

土日は混んでるだろうから必死で仕事を早く片づけた会社帰り、巨大な期待を込めて行ってきたぜっ。どんくらい期待してたかっていうと、駅から現地に行くまでPerfumeの「未来のミュージアム」を聴いてたんだぜっ(それがなんなんだよ)。
江戸浮世絵の春画はほとんどの絵師が描いてた。しかも割とマジで。しかも画料が普通より高いし、大名の贈答用とかもあるので、超絶技巧豪華極まりないものもある。がしかし、内容が内容なんで普通の美術展じゃ展示されない。まあ、たまーに一部だけ春画コーナーがあったりするが(こないだの暁斎展とかね)。しかーし今回、細川お殿様の尽力で、日本での春画展が実現したんだぜい(先に大英博物館でやってたの)。当然、オレなんぞは全部初めて見るものじゃ。まあ、一部知ってるのはあったが。

まず入って早速「あぶな絵」のジャブ。いきなりストレートじゃキツいもんな。何枚目かで磯田湖龍斎「色道取組十二番」というのがあって、目が点になる。……なんじゃこりゃ? 湯屋の様子で全員裸……なんだけど、人体としてどうもおかしい。解剖学的にヘンだ。中央の女性なんぞ下半身が女陰くっつけたカエルみたいな感じ? 湖龍斎は優れた絵師でオレは結構好きなんだけど、これはどうも彼のよさがあまり出てない。菊川英山の「あぶな絵 衝立」あたりは構図もキマってていい感じだ(別にあぶなくもなかったが)。

肉筆の名品コーナー。ほー、等伯の弟子らしい長谷川等仙「花園春画絵巻」外人ウケしそうなエキゾチックな感じですな。菱川派「衆道図巻」ほうほう男同士ですかい……って絵からは全然、髪型からして普通の男女にしか見えんのだが。局部も描いてないしな(というかよく分からん)。絵師不詳「狐忠信と初音図(春画屏風)」これおもろいね。武者絵なんだけど、一部をめくると結合してます。遊郭とかに置いてあったらしい。絵師不詳「耽溺図断簡」男女絡まる傑作と見るが、なんか体がどうなってんだかよく分からない。局部はちょいグロなもんで、フランシス・ベーコンの絵みたいにも見える。結構こういう、絡んでいるんだが体がどうなっているのか分かりにくいものも多い……というか描いてるほうもなんかよく分かってないんじゃないかって気がしなくもなくもない。歌川国政「好色十二図」ええっ? 国政ですと? あの役者絵で写楽以上と言われた国政ですかい? 春画は肉筆のこの画帖だけらしい。こりゃ驚き&結構うまいぞ。なかなか豪華で、こういうのを手がけられたってことは、実力がそれなりに評価されてたんだな。しかし……展示している一ページだけしか見れないのはもどかしいよな。全部見てえよ。歌川国貞「金瓶梅」。江戸浮世絵絶頂期に最も売れた絵師。他の国貞の作品もそうだが、豪華絢爛超絶技巧だったりする。春画が単なるエロ画でないのはこういうポジションの作品があるからだあね。

版画のコーナーへ。初期はモノクロで、やっぱり稚拙な感じがある。鈴木春信「風流座敷八景」座敷にある何かを風景に見立てる作品……の春画バージョンなんだね。普通のバージョンのは何度か見てるよ。勝川春章「会本拝開夜婦子取」……あかん。春章は肉筆美人画でめちゃキレイなのを描くのに、これは……これはなんか胴長過ぎだよなあ。ここでいくつも見ていて、なーんか男女の絡みに変化がない、体位ってんですかね、それが割と決まっていることに気づく。要するに男女の顔が見えて、男女両方の局部も見えて(この辺は局部における男女平等と見たい)、合体も見えてなきゃいかんってえと、だいたい体位が決まってくる。……思うに春画ってのは男女和合、招福の縁起物の役割も強く、どっちかの顔が見えないとかダメで、局部は男女バッチシ描いてあって結合してるのがいいんで、どっちかが見えないんじゃメデタクないからダメとか、そんな性質なんで体位が似てくるんじゃないのかな(もちろんそうでないのもあるけどね。歌麿のとか)。あと、着物着たまま局部だけ見せてるのも多い。これはマッパよりも服着たままの方がヴィジュアル的にエロい……んじゃなくて着物に摺りの派手な色や柄を使えて美しい……だけじゃなくて、オレが思うに、解剖学的ヌードが難しかったから着物でごまかせる、と考えたんじゃないか? 実際ごまかしてるだろ春章ちゃん他。当時の人も、例えば先の湖龍斎のを見て「なんかこの裸おかしくね?」とか思ったんじゃないだろうか(いやおかしいねワハハの「笑い絵」とも言うんだが、そういう点で笑うんじゃないと思うなあ)。

さて次、葛飾北斎「喜能会之故真通」これは有名なアレです。タコと絡んでいるヤツ。おお、本物を見たぞっ。結構キレイな絵だ。肌色もちゃんと摺っているではないか。セミヌードなんで、さすが北斎先生、人体描画にも自信があると見える。喜多川歌麿「歌まくら」これも豪華かつキレイだ。この二つはパネルで全部の絵を紹介している。歌麿の凄いのは男の方も手を抜かずに描いてるぞ。単なる若造じゃなくてな。あとキャンタマが……いや、あの、男の局部はポールだけ立ってるわけではないのだが、結構それしか描かないヤツも多い。しかし歌麿先生はちゃんとキャンタマもリアルに描いてるぜ。あとは……鳥居清長「袖の巻」、八頭身美人画描きよ。春画は横長構図。よくできている。それから階を移動し、また歌川国貞「花鳥叙情 吾妻源氏」「正写相生源氏」いずれもカラー艶本(版画の本)だが、江戸浮世絵絶頂期のバカテクが感じられる。まじこれ木版画? こんな細かいの彫ってたんかい。こんな色数使ってたんかい。

豆判の世界、コーナー。大名の携帯、贈答用に。小さいサイズのヤツ。絵は大きいのとそう変わらない。最後のエピローグとして永青文庫所蔵品。狩野派の「欠題十二ヶ月」巻物だが大名家に伝わってるものらしい。春画なんだけど、いかにも縁起物的招福な雰囲気がいい。女の顔オカメだしな。あと男のナニもデカい太いイコールめでたいだしな。

解説が豊富……というかこの豊富な解説のために茨の道を歩んできた研究者諸氏には敬意を表したい。「え~春画研究ですかぁ~? ダンナもスキモノですなぁあひゃひゃひゃ」などという偏見に耐えつつ研究を続けてきたのである。おお、それは報われようとしている。見よ、観客の多くは女性ではないか。いや、オレが行った時も六割がた女性だった。
展示替えがあるから、君が行ってもここに書いてあるのが見れるとは限らない。まあ、でも、どれもそんなに変わらないと言えばそうなんだが。
この機会に行くべし。
http://www.eiseibunko.com/shunga/

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2015年10月 4日 (日)

Don't Follow the Wind Non-Visitor Center(ワタリウム美術館)

311福島の原発事故による帰還困難区域がまだあり、そこにアート作品を展示している国際展「Don't Follow the Wind」のサテライト展。つまり、そこで何をやっているかの紹介とか、関連作品とか。入って2階が概要フロア。関連アート作品が「ノンビジターセンターの疑似体験エリア」というところに展示されていて、それは3階なんだけど、2階の吹き抜けに作られた仮設の階段を上って、そこから3階の展示をガラス越しに眺める。つまり入れない。近寄れない。イヤホンガイドを貸してくれるので、それで作品のコンセプトは分かる。もっと近づいてみたいと思って、エレベーターで3階に行っても目の前がコンクリートブロックで塞がっていて入れないのだ。

一般の人が訪れることができない帰還困難区域にアート作品を展示するとはいかなることか。立ち入りが解除される時まで見れないとはいかなることか。「いろいろ考えさせられますねえ」というコメントは誠に月並みだが、ノンビジターセンターまで立ち入れない展示をしてあるもので、なんかフラストレーションで悶々としてくる。もちろん、この悶々の中にこそ、この企画の意味があるのだ。そこにあるけど、行くことはできない。なぜ? いったい何があった? なぜそこに展示する? いやいや、そこで何があったかを強く意識させたいたいからこそ、そこに展示してあるのだ。

イヤホンガイドでノンビジタセンターの展示物の解説が聞ける(スマフォがあれば自分のでも聞けるぞ)。なんとなく覚えているのでは、Chim↑Pomの予告編ビデオだとか、竹内公太の、区域内にあった服を着て写真を撮ったのが現地にあり、服はこっちに展示とか。小泉明郎が現地の人にインタビューしてるとか、グランギニョル未来が現地移動に使った車の映像とか……っていうか、これ何人かでやってる戯曲で気にはなっていて、図書館にシナリオがあったんで読んでみたけどやっぱり舞台ものを字で読んだって何も分からんよなあ。あと、エヴァ&フランコ・マッテスの現地の写真だったかな、それをテクスチャにして防護服にプリントとか、アイ・ウェイウェイが帰還者のために、日常と同じ家の照明の点けたり消したりをやってるとか。ニコラス・ハーシュ&ホルヘ・オテロ=バイロスが、エリアを区切ってその中は除染しないよとか、まあ、なんというか、放射能いっぱいで立ち入れない、今は人が帰ってこれない場所の悲しさとか虚しさとか、そういうものをその場所ならではの事物を使ってアート作品として表現する……んだけど、何しろ近くで見れないから意図は分かってもやっぱり悶々と眺めているしかない。

4階はまず、現地、帰還困難区域のライブ映像。無人の町が、おおっと思わせる。あとは映画監督でもある園子温の作品。参加アーティストが国を越えてネットで会話する映像……の同時刻の現地の様子(もちろん無人、しかも夜)。会話の内容は別に反原発アジテーションでもなく、普通の制作談義っぽい。日本側の出演はChim↑Pomで、この企画の発案者とパンフレットには書いてある……うむ、なんちゅーか紅一点のエリィ嬢があまりギャルな風貌なんでタカをくくっていると、実は結構あなどれないことをしているんだな。あのギャル風貌は実は罠で、あんなチャラそうな小娘にアートができるわけねえよ、とか表層でしか考えられない頭の固いヤツを始めから叩き落としておく気なんじゃないのかね。まあ、それはそれとして、この映像作品は現地映像をチラ見しつつ鑑賞するとイロイロ味わえるというものだ。

この企画がアートとして問題提起をしつつ、各アーティストの表現の工夫も、アートを鑑賞というよりそのやり方を見て悶々としつつ。単なる美術鑑賞ではない何とも言えない気分が体験できるが、おすすめできる。君も悶々としてほしい。
http://www.watarium.co.jp/exhibition/1509DFW_NVC/index2.html

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