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2015年11月25日 (水)

肉筆浮世絵 美の競演(上野の森美術館)

シカゴのウェストンコレクションだそうで。ほう、こんなに持ってたんかい、というぐらい量が出ている。版画じゃありませんよ。全部肉筆よ。美人画が多い。上野の森にしては珍しく、入口と出口をガッチリ区切って混雑対策。まあ内容からすりゃ混んでもおかしくはない。

年代順で、最初は浮世絵登場前の誰だか分からんヤツ(無款)。浮世絵っぽい美人とか。それからおなじみ菱川師宣の「江戸風俗図巻」なんて定番をバッチリ持ってるじゃん。その後、京都の西川祐信が登場。「髷を直す美人」はセミヌードで……ええと、結構胸がイイだろ? いや、江戸浮世絵の胸ってなかなかイケてるの少ないんで。あと「観月舟遊図」は水面がなかなかいい感じで。かように、今回は美人画が多いんだが、だからっつって美人のツラばっかり見ていたところで、概ね当世風の感じで描いてあるだけなんでね、どれも似たようなもんであるからして、むしろ背景とかに注目した方がいいと思う次第である。で、ここからしばらくは浮世絵初期の型通りの美人画が多い。あの、ほら、懐月堂なんちゃらとか。美人画の巨匠宮川長春も型にハマっている作品いくつか。宮川一笑「鐘馗と遊女図」はむしろ鐘馗に注目。川又常正「祗園社 春の遊楽図」は、鳥瞰図。でも人が細かく描かれ、一つ一つが実に丁寧キレイだ。うん、これいいね。同じく「美人と奴」もキレイとメモってあるが……うむっ、なんか覚えていないぞ。奥村政信「蚊帳の遊女」や磯田湖龍斎「桜下遊女道中図」いずれも禿(子供の付き人)がいるんだが、これが大人のまんま縮小コピーで不自然極まりない。遊女の方が巨人女に見えちゃう。これをカムロアウトと呼びたい。

えー次は錦絵時代。栄之「七福神吉原遊興絵巻」ほうほう、さすが栄之、品がいいね。あと、この時代はなんたって美人画の巨匠勝川春章が外せない。何が出るのかな? 「仲之町の遊女」ううむ……首が短くて微妙だぞ。「納涼美人図」まあまあ。薄衣オッケーな感じ。「美人按文図」おおっ、これはなかなかいいぞ。横座りする美人の姿勢が実にイイですな。着物の柄もイケてますな。あとで分かったが、これ入場チケットになってた。あと、いわゆる春章らしい美人だったら、弟子の春潮の「立姿遊女図」が近い。同じく春潮「娘と送り図」は「横顔」とメモってあるが……ありゃ、覚えていない。いやいや、横顔をちゃんと描いてるってやつだよ。歌麿がなぜか無くて……あれ? 出品リストを見ると一つだけあるじゃん。見落としたのか? 栄之「佳人詠歌図」なかなか……って描いてあるが覚えてねえぞ。再会すりゃ思い出すだろうが。「遊女と禿図」顔小さっ! 2階に上がって「七福神酒宴図」わあ楽しーっ。豊春「雨乞小町図」これは初めて見る。小野小町だから平安の格好した美人だよ。礫川亭永理っての初めて聞くんだけど「庵崎二美人図」というのが妙に細長い人物なもんで印象に残る。

で、もう幕末近くで。二代目歌麿「三美人音曲図」ううみゅ……やっぱり二代目はちょっとね…… 藤麿「大原女図」馬がリアル。そういえば歌麿も動物や虫は超リアルに描いてたのだ。鍬形惠斎「桜花遊園図」菱川風ってメモってあるが、そうか髪型か。豐国「千鳥を見る美人図」背景がオッケー。豐国「騎牛遊女図」これ、牛がリアル。立体的。豐国ってこんな描き方もできたんだな。国貞+英一珪「短冊を結ぶ美人図」美人の下でがんばっている男に注目。豐国の24枚組「時世粧百姿図」どどーん。国直「月下の庭三美人図」これも背景オッケー。……あぁー結構な数なもんで、このへんでなんかもー疲れてきちゃったぞ。北斎は3つほど。「大原女図」ラフな描画ながらうまさを感じさせる。さすがだ。弟子の葛飾北濤「松風村雨図」構成が師匠譲りで見事……とメモってあるが、ありゃ、どんなんだったかな。英山とか英泉とかがあり、狩野章信「茅屋で戯れる男女」春画じゃねえが一応戯れておる。

また上方の絵になり、祗園井特「芸妓と仲居図」「文読む芸者と三味線を持つ芸者」キターっ! 出たーっ! 京都系の濃ゆいヤツ。これを見ずして肉筆浮世絵は語れない(まあ別に語ってもいいけど)。あとは近代で暁斎「一休禅師地獄太夫図」あれ? 太夫とファンキーガイコツの超有名なヤツなんだけどここが持ってたの? というか何枚かあるのか。清親もがんばってていくつかあってやっと終わり。

なんかスゲー数なんだけど。しかも展示替えもあるんだって。ガラス張りだけど絵との距離が近くて見やすいぞ。
http://weston.exhn.jp/

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2015年11月22日 (日)

村上隆の五百羅漢図展(森美術館)

私は以前村上隆を次のように形容した。「澁澤龍彦に真っ先に無視されるタイプ」。これ、自分じゃ結構いい線いってると思うんだが。さて今や世界のムラカミである。オークションでバカ高く売れるので、カネ目当てに活動しているヤツだと思っている人が少なくないが、著作など読む限り(って一冊しか読んでないが)、この人は朝から晩までアートのことばかり考えている。金儲けに走っているように見えるのは、世界的なアートの指標が金だからというミもフタもない現実があるから、それに合わせているに過ぎない。どうすれば日本の現代アートを、世界美術史に残せるか、プロットできるのか、そのために日々爆走を続けているナイスガイである……が、私は作品そのものはそんな好きではないし、村上隆大好きって言ってる人は果たしているんだろうかと思ったりする。どちらかというと、アートを生活の糧にしている玄人ウケしている感じだ。世界的に売れるなんてことは生半可じゃできないからである。

前の村上の個展は東京都現代美術館でやった。あのときもらったカイカイキキの団扇まだ持ってるぜっ。あれから何年かな? ともあれドーハで絶賛された「五百羅漢図」がやってくる。行くしかあるまい。
出品リストを見ると、ほとんどが今年の作品で、その制作ペースに驚く……というか基本工房制作なんだよなあ。「五百羅漢図」ももちろん学生などをコキ使った工房制作で、本人は下絵や指示など鞭を振り回しつつ奔走。大量のスタッフを叱咤しながらハードに制作していったことは想像に難くない。
で、最初に「円相」というシリーズがある。これが意外と……悪くない。最初の似顔が描いてあるのはクソッタレだが、あとの抽象性の高いのは、おお、こんな精神世界っぽいのもやるようになったか、とちょっと愉快になった……にしても、全作品撮影可能だからって、うるせーんだよそこらじゅうでバシャバシャバシャバシャ撮りやがって!……自分がこうもシャッター音にイラ立つとは思わなかったな。多分これも作品の一部なんだよな。カメラ音の何が悪いの? ん~? とか言われそうだ。それにしてもだね、絵をよく見ると(って別にボケっと見ていても)、金箔だのプラチナ箔だの使ってて、ところどころキラキラしてるんだよね。歩くに連れそのキラキラが変化するんだな……だからキネティックなんだよっ! カメラで正面から写真撮って満足してるんじゃねーよこの愚民どもがっ! あーいかんいかん、シャッター音にイラ立ちすぎじゃ。

金ぴかのデカい立体作品がある。何をどう造形してるんだかよく分からない。達磨の絵がある。いろいろ絵があるが、どれもアクリルのテカテカした質感で、時に箔が入ってキラキラで、バックが時に渋い銀色で、そこにドクロ模様の凹凸がビッシリとか。なんていうか、普通の絵画とは違う質感を持っている。実は村上作品がただのマンガ風落書きという評価でないのは、この質感の「できあがった感」じゃないかと思える。ちょっと高級感があるのだ。これは五百羅漢もそうだが、この質感無しに評価はないと思うよ……だから質感の写らねえ写真なんか撮ってんじゃねー……いやいやもうやめよう。

次の部屋では、辻惟雄のお題に対し村上が作品を作るパネル紹介。実はこれが村上の本領っぽくてすごく面白いんだが、残念ながらパネル。その奥に長沢芦雪の「方寸五百羅漢図」とか、狩野一信の「五百羅漢図」から2つとか、昔のものをありがたく展示。うーん、一信の、やっぱいいねえ。それから村上のおなじみキャラ「DOB君」コーナー。これもアクリルテカり作品。ゲロタンは派手にゲロしてて普通にキモい。

そしてメインの「五百羅漢図」。最初のデカい空間で「白虎」と「青竜」を向かい合わせで並べる……そういや入り口に白虎と青竜のおしゃべりヌイグルミがあったな。子供だましかと思ったが、こういうつながりかい。それにしてもデケえ。ガッツリ描いてある。おなじみのアクリルのテカり。時にキラキラでもある。うーん、同じデカい絵でも遠藤彰子のとはずいぶん印象が違うな。遠藤彰子のは内的世界を一人で大スケールで構成し描画していたので、世界観みたいなのが絵の力で十分感じられたが。おお、そうだ、あと渋谷にある岡本太郎の「明日の神話」。あれも実に太郎エネルギー(?)を感じる作品だ。一方村上の「五百羅漢」はなんかただデカいという印象しかない。当然、私としては遠藤彰子や岡本太郎の方が好きなんだが……が、しかし、村上の方も決して世界感が無く描かれているわけではないし、構成されてないわけではないし、個性がないわけでもない……なんでこうも印象が違うのだ? 工房制作だからだろうか……と、ふと考える。所詮個人の力でなく。人をかき集めて作り上げたものなのだ。もちろんそれが悪いわけではない。エジプトのピラミッドだって奈良の大仏だって奴隷かき集めてで作り上げた芸術品であろう……いや待てよ、そうだそれそれ、そういう印象に近い。あるいはディスニーランド? そうそう、ディズニーランドな。多数のスタッフでその場を作り上げているが、どこをとってもウォルト・ディズニーの世界だ。しかし、ディズニーランドが、一つのまとまった芸術作品であるという認識はできない。なんかこの「五百羅漢図」はそれに近い。ここは村上ランドなのだ。いや、でも絵画作品には違いないぞ。

なぜ工房制作は個人制作よりパワーが劣って見えるのか? 一つは「工房制作である」という情報が印象を左右するのである。素晴らしい絵だと思ったら「なーんだルーベンス工房作かよ」そうですねえ、なーんかありがた味が減っちゃいますよねえ。素晴らしい絵だと思っていてもちょっと「あれ? そういえば……」って感じに見えてきちゃいますよねえ。が、しかし、果たして本当にそれだけか? ん~? 本当にそれだけか~ぁ? ここで極めて科学的な説明が始まる。曰く、個人制作の方がパワーがあることは描画の自由度ゆえに、量子論の「多世界解釈」によって科学的に説明できる。ん? なんじゃそりゃ? 長くなるが一から説明しよう。

まず「光」というものは、波か粒子か? さあどっちだろう。ここで有名な「二重スリット」という実験がある。光を平行なスリットをが入った板に向かって照射する。さらにその向こうに壁があるが、そこにどう映るか? はい、干渉模様が表示されます。結果、光は波であると最初結論づけられた。ところが、なんやかんやあって、科学も進んで光には粒子の性質もあることが分かり、粒子一つを打ち出す、なんてこともできるようになった。さてそこで、光の粒子を一つずつを二重スリットに向けて打ったらどうなるか? 粒なんだからどっちかのスリットを通って向こうに当たるだけでしょ、と思いきや、ぬぁんと壁に当たった一粒ずつの跡が干渉模様になってしまった。ええまさか? 一粒なんだから何がどうやって干渉するのよ! この時点でもう分からん人は「二重スリット」でググれ。映像とかあるから。それで、この粒とも波ともつかないちっこいヤツが「量子」だ。

この二重スリット実験、量子一粒が二つに分かれて、それぞれのスリットを通った? いやいや量子は最小単位だ。そんなわけねえ。となると、つまり量子の粒なんてものはなくて、粒っぽいけど実は確率みたいな実体なく分布してるヤツが2つのスリットを通り、壁に当たって初めて粒になって見えるようになった。つまり「壁に当たる」=「観測」した時だけ一気に波が収縮して粒子になるのだ。ってなことを科学者は考え、光だけじゃなく、電子や分子とかもそんな性質があり、「観測したときだけ実体を表す」という変な性質を持っているのだよ、という「コペンハーゲン解釈」を得るに至る。また、こういうのを「不確定性原理」というのだ。

ところがシュレディンガーという波動方程式を作った科学者が、「観測してなきゃ実体が確定しないだと? そんなアホな」というので有名な「シュレディンガーの猫」という思考実験を思いつくが説明が面倒なので略(ググれ)。ついでにフォン・ノイマンというこれまたエライ人が「数学的に収縮なんぞしない」と証明。ノイマンはそこで、量子は人の心を読んで観測する意識が収縮を起こさせる、とかトチ狂ったことを言い出したが、なんやかんやで否定され(いやまだ全面的には否定されてはいないようだが)、しかしそうなると収縮という「コペンハーゲン解釈」が窮地に陥るようになった。

そこで出てきたのが「多世界解釈」というもので、無理な収縮もしないし数学的には結構エレガントらしい。しかしこれは何か? 二重スリット実験では右を通った世界と左を通った世界に分裂する、というパラレルワールド(平行世界)の理論なのだ。曰く、可能性の数だけ世界が分裂していて、量子はその分裂世界の重ね合わせでできている。だから干渉模様が現れるのだ、という、もっとマッドな世界観だ。でも、こいつはだんだん支持者が増えてきているらしい。

なに美術と何の関係があるのかって? まあ話はもうすぐだ。目に見える物体も、結局のところ量子でできているのだから、観測していない時には実体が無く(有名な「月は誰も見ていない時には存在しない」ってやつ)、多世界の重ね合わせでできている。当然絵画もそうであるし、絵画における絵の具の描線もそうだ。ここで、個人作と工房作で何が違うか? 工房作は親方の下絵の指示で弟子(「五百羅漢」の場合スタッフの学生)が、実際の描画を行う。先に「可能性の数だけ世界が分裂する」と述べた。一つの描線でどれだけの世界が分裂できるか? つまりどっちがより多くの「多世界の重ね合わせ」であろうか? 答えは簡単。弟子が親方の意図(下絵)に忠実であればあるほど、自由度すなわち可能性は少なく、世界の分裂は少ない。他方、個人の意志のおもむくまま描いたものは可能性が多い、すなわち一つの描線における重ね合わされた多世界が多い。そう、それが工房作と個人作のエネルギーの差として鑑賞者には感じられるのである! どうだい! すげえ科学的な理論だろう、自分でもホレボレしちまうなぁ(すげえヘリクツでもあることはイチオウ承知である)。かくして村上隆の「五百羅漢」が、大きさの割にエネルギーを感じさせないことが納得いった。
まあ実際の理由は前者(工房作という情報)だろうなあ。

さて、そんな村上の工房作である指示書というか下絵もちゃんと展示してある。先の理屈か気のせいか、下絵の方が生き生きしている感じがしないかい? あと4つの「五百羅漢図」についての絵の解説。これはこういうことを描いていたのか分かる。

その後またデカい部屋で2つ「五百羅漢図」の続き「玄武」「朱雀」。なんか太陽系の絵とか、鳳凰……というか、解説によれば手塚治虫の火の鳥も入っているらしい。その後また、あれこれあって映像があって終わり(映像見てない)。

とにかくスケールはさすが世界レベル。あとアクリルやら金箔、プラチナ箔の質感で魅せているところがかなりある。贅を尽くした村上ランド。個人的にゃそこらじゅうのシャッター音が結構気に障るんだが、まあシャッター音があったからどうって作品でもないんだけどねえ……
http://www.mori.art.museum/contents/tm500/

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2015年11月15日 (日)

「映像表現'72」/「藤田嗣治全所蔵作品展」(東京国立近代美術館)

どっちかというと藤田嗣治目当てであって、映像表現はついでという感じ。「映像表現'72」は1972年に開催された展覧会の再現、会場の広いスペースで当時を再現し、それを囲む通路で今のインタビューとか映像作品。作品そのものはそう印象に残らん&ああ70年代だなあってレトロな雰囲気の8mm&16mmフィルムが中心。とはいえ、私は元映画研究会であり、大学で8mm映画を撮っていた約30年前、その時点で世の中はビデオに移行しつつあり8mm映写機は既に中古しかモノがない状態であった。それが30年後の今になって会場を十数台のフィルム映写機がギュルギュル動いているという光景は驚異意外の何者でもない。映像ももちろんフィルムの「あの感じ」。おお懐かしや&麗しや、あの8mmの味わいよ。かつての私の映画作品も意味不明なシロモノで、フィルムをわざと床にこすりつけて傷とかつけてたりしたもんさ。ところで解説を見ると、今はフィルムからフィルムの複写ができなくて、一度デジタルで取り込んで、それを8mmに転写するというハイテクな方法を使っているらしい。うん、まあいいや。そんな、フィルム空間そのものが作品みたいなところを出て常設へ行く。

藤田嗣治は年代順で展示。最初は面相筆持った自画像。それから「パリ風景」なんていきなりなかなかいい。モノクロ風景ながらああ、これフジタだなあというグラデーションぷり。あとはおなじみ乳白色裸婦「タピスリーの裸婦」、ちょっと黄色い「五人の裸婦」は手堅い。そして戦争が近づきブラジルへ行き「ラパスの老婆」「リオの人々」のブラジルテイストな絵。

しかーし、お楽しみはここからだ。かつては展示をちゅうちょしていた戦争画を一挙公開! 誰じゃい世の中の右傾化の証とかトンマなことを言うとる奴は。まあ、見たまえよ、戦意高揚っていうような単純な絵は描いてないぞ。とりあえずまず戦争画以前に、同時代に描いた「猫」が傑作。なんとあの藤田の猫が野生むき出しにバトルしておる。あのおすまし猫達がだよ。歯と闘争心ムキ出して戦っておるのだ。まさに当時の藤田。それから「南昌飛行場の焼打」や「 哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘」はまだ画面も明るいんで、普通に戦争やってやるぜ的な雰囲気の絵画に見える。「武漢進撃」は軍艦が描いてあるが、海の風景画としてもなかなか美しい。

さて、藤田はヨーロッパの戦争画に影響を受けたそうで、中でもジェリコーとかドラクロワとか、ロマン主義のスゲエヤツラの。そのテイストをだんだん入れてくる。「ソロモン海域に於ける米兵の末路」は小舟に乗った米兵。当時の「鬼畜どもザマぁ」という感じでもなく、何とも虚しさの中にも生き残った者達の気力みたいなものを感じさせるようなそうでないような。ここでもう藤田は敵か味方かなんてどうでもよくて(いや、よくもないんだろうけど)、大本営に一応出してもいい感じながら、描きたい視点で描き始めていで、だんだん天からの視点になってくる感じだ。それから戦争も旗色が悪くなってくる。おなじみ「血戦ガダルカナル」や「アッツ島玉砕」になると、ドラクロワ顔負けの。暗い重い画面に敵も味方もよく分からないのが入り乱れてひたすら殺し合うような凄惨な絵を描き始める。「○○部隊の死闘ーニューギニア戦線」も「薫空挺隊敵陣に強行着陸奮戦す」も奮戦を称えるというより、何か悲壮な宿命を背負ってやむない殺人をやらかしてる感が強い。「サイパン島同胞巨節を全うす」は支配されるくらいなら身投げだという女達の絵。まことに悲壮感漂う……んだけど、こう言っちゃあ何だが、描いてるの楽しそうだな。戦争を描いて楽しいわきゃあないと思うだろうが、なんていうか、自分の絵画人生で「描きがい」をタップリ感じているみたいで、要するにノリノリ。芸術家というものは、たとえ自分の身に起きた不幸であっても、それを素に作品を生み出せるなら、ガッツリとかぶりついちゃうわけ。今の時代だって、精神を病んでいるアーティストが「人生全てネタじゃ」といって死にそうになったことまでネタに使ってガシガシ自己表現しているのだ。戦争なんてデカい獲物に喰いつかないわけがない。「平和の中で生み出してこそ本当の芸術」なーんて善人丸出しで平和主義優等生的なことを言う御仁もおるだろうけど、プリミティブな衝動による芸術がもっとも力強いもんで、そういう絶対的な価値は、そこに善悪を持ってきてもいかんともしがたいと思うんよ。真の美術鑑賞は善人にはできない残酷なものなのじゃ。

さて戦争が終わって、藤田は「戦争画を描いた責任を画家を代表して取ってくれ」みたいな理不尽なことを言われたらしく、日本と決別した(そりゃするわな)。そしてフランスに帰化して二度と帰ってこなかった。で、そんな戦後の絵は平和ボケかというとなかなかどうして「動物宴」や「ラ・フォンテーヌ頌」を見ると……うむ、戦争画の後だと、なんか明るい動物戦争みたいに見えなくもない。最後の「少女」はもはやレオノール・フジタの少女である。

あと藤田が戦争前に日本に帰ってきて撮った映画「現代日本 子供編」というのがあり、日本の田舎での子供の遊びとかお祭りとか床屋とか、なんだけどなんか貧乏くさいとかで没になってたらしい。うむぅ分からんでもないが、それより戦争画を見た後だと、ここに映される戦争ごっこ(チャンバラ)が結構人数を使っていて、戦争画をほうふつとさせ妙な気分になる。

あとは雑誌とかの挿し絵。

この戦争画群はやっぱし見ておけって感じがするぞ。
http://www.momat.go.jp/am/

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2015年11月 9日 (月)

キムソンヘ展(ラフォーレミュージアム原宿)

なんか近場で大規模ってほどでもないけど、そこそこおもしれーのないかなーと思ってネットで検索して見つける。シャンデリアアーティストだそうだが、別にガラスとかじゃなくて、オモチャとか文房具とかヌイグルミとかで作る。写真など見る限り……あーそうそう、オレは蜷川実花の原色でゴテゴテした作品がどうも苦手で、なんか同じ匂いがする。でも気になるから行ってみた。

原宿に着いたら反戦デモが通る。若者らしい。割とノリノリの音楽が流れていて、「戦争反対」とか「アベやめろ」とか、合わせて怒鳴っておる。ありゃあ理屈じゃない感情だよなあ。説得力も実現性も伴わない、感情でしかないんだ事実の認識は声や音楽で吹っ飛ばせる。おお力強い声、力強い音楽、311のあとぐらいに反原発デモのネット中継なんぞ見ていて、「力強い音楽が続いています!」なーんて、そんな点を褒めちぎっていいもんかな。しかし戦争がイヤだってだけのゴチャゴチャした結集はなんかキモいな。そのくせ妙な力強さがある。おっと、要するにこのシャンデリアと似ているなーと言いたかった。ヌイグルミかわいい~、だから、い~っぱい集めてシャンデリアつくっちゃお~ できた結果がなーんかキモチワルイが、変な力強さがある、と、こう結びつけたいわけだ。

さて会場。どんなもんでシャンデリアや照明が作られていたかっていうと、古い人形(壊れてるのも)、文房具、同じヌイグルミたくさん、パチンコ、熊のヌイグルミたくさん、造花と動物の人形……これはまだマシ、黒猫のヌイグルミ、金色に塗ったスニーカー、映画「グレムリン」のギズモヌイグルミ、ミラーボール使用、年末の熊手風……う~ん、みんなキモ~い。別にけなしてるんじゃなくて、まさにこれを見に来たのさ。これだよこれこれ。

会場では土日にワークショップもやってるようで、熊手を作るんだそうだ。そう、あのっ、年末の熊手な。あれを見て「わあキレーイ」という人は、このキムソンヘも実に快適に見れるであろう。

私の好きな画家にレオン・フレデリックってのがいます。でもネットで画像検索なんかすると、これがまた結構キモいのが出てくる。いや不快っていうか、花で飾られた人物なんだけど過剰なのでなんかキモい。いや待て、これも普通にキレイだと言う人もいるかもしれん。

プリミティブなものは力強い。これもまた、とにかくたくさんかき集めまとめちゃえというプリミティブな表現だ(多分)。だから洗練とは逆のベクトルを持つが、その構成要素はあくまで自分が好きで選び出したもので、そこは選び出すという洗練のベクトルが発生している。そして、その結集が、あの妙な力を持つ表現、言うなれば「相反するものの一致」なのだ(そうなのか?)。
おっと、でも今気がついたが、チラシにも「相反する感覚を軽快に往復し……」なんて書いてある。まんざら適当な印象じゃないぞっと。
http://www.laforet.ne.jp/news_events/267

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2015年11月 4日 (水)

アルフレッド・シスレー展(練馬区立美術館)

印象派はなんかもー飽きてしまった。なもんで、都美のモネ展は行ってないし、多分行かないと思うし。がしかし、このシスレーは行った。家から割と近いから。あと、練馬がこういう正統的な(?)企画をするのは珍しいんで、何をしてくれるかな? で、行ったら点数は国内各地の所蔵品から選りすぐった20点! 展示スペースに余裕があるので、1点1点じっくり対峙できるぜっ! が、しかし……

シスレーは相当前に、確か伊勢丹美術館だったかなぁ、企画展を見て、そこでなんか見尽くした感じになっていた。水辺の絵が多くてそれが本領って印象。ま、印象派展でもチラホラ見かけるね。で、最初にあるのが「マントからジョワジー=ル=ロワへの道」水辺じゃないけど道に落ちる木の陰が味~(?)。「ルーヴシエンヌの風景」ちょっと空が暗い感じだが。なかなかいい。シスレーは極めて典型的な印象派で、離れて見てよし、近づいて筆跡に感心してよし、部屋に飾ってよし。屋外がほとんどなんで「印象派の画家達は屋外に出て外光の一瞬をとらえたのさ」と一席ぶってもよい。印象派ってのは全体的に「ぶわっとしている」感じが多いんだけど、「ヒースの原」なんぞ背後の河のエッジとか割とシャープに描いているところがあり、それでも自然に見える。「サン=マメスの平原、2月」の枯れ木、枯れ草、山のエッジなど、全体に自然なので何気なく見ちゃうんだけど、実のところ絶妙な描画のバランスで描いてるんだな。「サン、マメス」は映り込みのない水面。「麦畑からみるモレ」は樹が3本プラスアルファですっと立ってていい眺めだにゃ。「葦の川辺ー夕日」は夕日というか青空。「ロワン河畔、朝」これは水辺、映り込み、全体の明るさ、筆跡上等で見事にキマっている。対して、同じ部屋にある「レディース・コーヴ、ラングランド湾、ウェールズ」は珍しく海辺……なんだけど、やっぱ慣れてないのか岩の描写がちょと苦しい。砂浜もなんとなーく、これでいいのか感がある。海辺はちょっと不得手なんじゃないかね。絵本の挿し絵みたいな「鵞鳥のいる河畔」……ん、もう油彩は終わりか。展示会場はまだまだ途中なのだが……

全館使ってこの展示量ではヤヴァいと思ったのか、ここでなんと、佐川美加による、シスレーも描いたセーヌ川の解説。「河川工学的アプローチ」だそうで、曰く「セーヌ川を知っていますか?」 船の運航についてとか、解説が詳し~い。超詳しい……って、オレ別にセーヌ川の勉強しに来たわけじゃなくてシスレーを見に来たんだけどな。良心的なお客と勉強好きとチョウチンモチはこういう奇策も大いに評価するだろうけど、オレ的にはなんか「コレジャネーヨ」感が強い。が、ここで銅版画が出てくる。シャープなエッジで正確に描かれている。へー、こういう描き方もできるんだシスレー、と感心していたら、なにシャルル・メリヨンだって? シスレーじゃねえじゃん。

下の階に行ってあるのは、シスレーの地を訪ねた日本人画家。他の美術館から借りてきた連中はまずまず……なんだけど、結果的にシスレーの凄さを実感させる感じなんだな。正宗得三郎「モレーの冬」の木の枝なんか見ていると、あーなんか枝がバリバリだよな。やっぱシスレーってうめえわーとか思ったりするんよ。うん、なんかどれも風景があんまり自然じゃない。作ったというか、変なアートっぽい演出をかけてる感じでよ。それから参考出品として練馬区美術館所蔵のものは、ううむ、さらに格が落ちてるような……キビちい。

セーヌ川の河川工学にも興味がある人にはオススメ。シスレーだけって人には、ちょっと物足りないかな。でも、いい絵が結構並んでいるんだが…… http://www.neribun.or.jp/web/01_event/d_museum.cgi?id=10066

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