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2015年11月22日 (日)

村上隆の五百羅漢図展(森美術館)

私は以前村上隆を次のように形容した。「澁澤龍彦に真っ先に無視されるタイプ」。これ、自分じゃ結構いい線いってると思うんだが。さて今や世界のムラカミである。オークションでバカ高く売れるので、カネ目当てに活動しているヤツだと思っている人が少なくないが、著作など読む限り(って一冊しか読んでないが)、この人は朝から晩までアートのことばかり考えている。金儲けに走っているように見えるのは、世界的なアートの指標が金だからというミもフタもない現実があるから、それに合わせているに過ぎない。どうすれば日本の現代アートを、世界美術史に残せるか、プロットできるのか、そのために日々爆走を続けているナイスガイである……が、私は作品そのものはそんな好きではないし、村上隆大好きって言ってる人は果たしているんだろうかと思ったりする。どちらかというと、アートを生活の糧にしている玄人ウケしている感じだ。世界的に売れるなんてことは生半可じゃできないからである。

前の村上の個展は東京都現代美術館でやった。あのときもらったカイカイキキの団扇まだ持ってるぜっ。あれから何年かな? ともあれドーハで絶賛された「五百羅漢図」がやってくる。行くしかあるまい。
出品リストを見ると、ほとんどが今年の作品で、その制作ペースに驚く……というか基本工房制作なんだよなあ。「五百羅漢図」ももちろん学生などをコキ使った工房制作で、本人は下絵や指示など鞭を振り回しつつ奔走。大量のスタッフを叱咤しながらハードに制作していったことは想像に難くない。
で、最初に「円相」というシリーズがある。これが意外と……悪くない。最初の似顔が描いてあるのはクソッタレだが、あとの抽象性の高いのは、おお、こんな精神世界っぽいのもやるようになったか、とちょっと愉快になった……にしても、全作品撮影可能だからって、うるせーんだよそこらじゅうでバシャバシャバシャバシャ撮りやがって!……自分がこうもシャッター音にイラ立つとは思わなかったな。多分これも作品の一部なんだよな。カメラ音の何が悪いの? ん~? とか言われそうだ。それにしてもだね、絵をよく見ると(って別にボケっと見ていても)、金箔だのプラチナ箔だの使ってて、ところどころキラキラしてるんだよね。歩くに連れそのキラキラが変化するんだな……だからキネティックなんだよっ! カメラで正面から写真撮って満足してるんじゃねーよこの愚民どもがっ! あーいかんいかん、シャッター音にイラ立ちすぎじゃ。

金ぴかのデカい立体作品がある。何をどう造形してるんだかよく分からない。達磨の絵がある。いろいろ絵があるが、どれもアクリルのテカテカした質感で、時に箔が入ってキラキラで、バックが時に渋い銀色で、そこにドクロ模様の凹凸がビッシリとか。なんていうか、普通の絵画とは違う質感を持っている。実は村上作品がただのマンガ風落書きという評価でないのは、この質感の「できあがった感」じゃないかと思える。ちょっと高級感があるのだ。これは五百羅漢もそうだが、この質感無しに評価はないと思うよ……だから質感の写らねえ写真なんか撮ってんじゃねー……いやいやもうやめよう。

次の部屋では、辻惟雄のお題に対し村上が作品を作るパネル紹介。実はこれが村上の本領っぽくてすごく面白いんだが、残念ながらパネル。その奥に長沢芦雪の「方寸五百羅漢図」とか、狩野一信の「五百羅漢図」から2つとか、昔のものをありがたく展示。うーん、一信の、やっぱいいねえ。それから村上のおなじみキャラ「DOB君」コーナー。これもアクリルテカり作品。ゲロタンは派手にゲロしてて普通にキモい。

そしてメインの「五百羅漢図」。最初のデカい空間で「白虎」と「青竜」を向かい合わせで並べる……そういや入り口に白虎と青竜のおしゃべりヌイグルミがあったな。子供だましかと思ったが、こういうつながりかい。それにしてもデケえ。ガッツリ描いてある。おなじみのアクリルのテカり。時にキラキラでもある。うーん、同じデカい絵でも遠藤彰子のとはずいぶん印象が違うな。遠藤彰子のは内的世界を一人で大スケールで構成し描画していたので、世界観みたいなのが絵の力で十分感じられたが。おお、そうだ、あと渋谷にある岡本太郎の「明日の神話」。あれも実に太郎エネルギー(?)を感じる作品だ。一方村上の「五百羅漢」はなんかただデカいという印象しかない。当然、私としては遠藤彰子や岡本太郎の方が好きなんだが……が、しかし、村上の方も決して世界感が無く描かれているわけではないし、構成されてないわけではないし、個性がないわけでもない……なんでこうも印象が違うのだ? 工房制作だからだろうか……と、ふと考える。所詮個人の力でなく。人をかき集めて作り上げたものなのだ。もちろんそれが悪いわけではない。エジプトのピラミッドだって奈良の大仏だって奴隷かき集めてで作り上げた芸術品であろう……いや待てよ、そうだそれそれ、そういう印象に近い。あるいはディスニーランド? そうそう、ディズニーランドな。多数のスタッフでその場を作り上げているが、どこをとってもウォルト・ディズニーの世界だ。しかし、ディズニーランドが、一つのまとまった芸術作品であるという認識はできない。なんかこの「五百羅漢図」はそれに近い。ここは村上ランドなのだ。いや、でも絵画作品には違いないぞ。

なぜ工房制作は個人制作よりパワーが劣って見えるのか? 一つは「工房制作である」という情報が印象を左右するのである。素晴らしい絵だと思ったら「なーんだルーベンス工房作かよ」そうですねえ、なーんかありがた味が減っちゃいますよねえ。素晴らしい絵だと思っていてもちょっと「あれ? そういえば……」って感じに見えてきちゃいますよねえ。が、しかし、果たして本当にそれだけか? ん~? 本当にそれだけか~ぁ? ここで極めて科学的な説明が始まる。曰く、個人制作の方がパワーがあることは描画の自由度ゆえに、量子論の「多世界解釈」によって科学的に説明できる。ん? なんじゃそりゃ? 長くなるが一から説明しよう。

まず「光」というものは、波か粒子か? さあどっちだろう。ここで有名な「二重スリット」という実験がある。光を平行なスリットをが入った板に向かって照射する。さらにその向こうに壁があるが、そこにどう映るか? はい、干渉模様が表示されます。結果、光は波であると最初結論づけられた。ところが、なんやかんやあって、科学も進んで光には粒子の性質もあることが分かり、粒子一つを打ち出す、なんてこともできるようになった。さてそこで、光の粒子を一つずつを二重スリットに向けて打ったらどうなるか? 粒なんだからどっちかのスリットを通って向こうに当たるだけでしょ、と思いきや、ぬぁんと壁に当たった一粒ずつの跡が干渉模様になってしまった。ええまさか? 一粒なんだから何がどうやって干渉するのよ! この時点でもう分からん人は「二重スリット」でググれ。映像とかあるから。それで、この粒とも波ともつかないちっこいヤツが「量子」だ。

この二重スリット実験、量子一粒が二つに分かれて、それぞれのスリットを通った? いやいや量子は最小単位だ。そんなわけねえ。となると、つまり量子の粒なんてものはなくて、粒っぽいけど実は確率みたいな実体なく分布してるヤツが2つのスリットを通り、壁に当たって初めて粒になって見えるようになった。つまり「壁に当たる」=「観測」した時だけ一気に波が収縮して粒子になるのだ。ってなことを科学者は考え、光だけじゃなく、電子や分子とかもそんな性質があり、「観測したときだけ実体を表す」という変な性質を持っているのだよ、という「コペンハーゲン解釈」を得るに至る。また、こういうのを「不確定性原理」というのだ。

ところがシュレディンガーという波動方程式を作った科学者が、「観測してなきゃ実体が確定しないだと? そんなアホな」というので有名な「シュレディンガーの猫」という思考実験を思いつくが説明が面倒なので略(ググれ)。ついでにフォン・ノイマンというこれまたエライ人が「数学的に収縮なんぞしない」と証明。ノイマンはそこで、量子は人の心を読んで観測する意識が収縮を起こさせる、とかトチ狂ったことを言い出したが、なんやかんやで否定され(いやまだ全面的には否定されてはいないようだが)、しかしそうなると収縮という「コペンハーゲン解釈」が窮地に陥るようになった。

そこで出てきたのが「多世界解釈」というもので、無理な収縮もしないし数学的には結構エレガントらしい。しかしこれは何か? 二重スリット実験では右を通った世界と左を通った世界に分裂する、というパラレルワールド(平行世界)の理論なのだ。曰く、可能性の数だけ世界が分裂していて、量子はその分裂世界の重ね合わせでできている。だから干渉模様が現れるのだ、という、もっとマッドな世界観だ。でも、こいつはだんだん支持者が増えてきているらしい。

なに美術と何の関係があるのかって? まあ話はもうすぐだ。目に見える物体も、結局のところ量子でできているのだから、観測していない時には実体が無く(有名な「月は誰も見ていない時には存在しない」ってやつ)、多世界の重ね合わせでできている。当然絵画もそうであるし、絵画における絵の具の描線もそうだ。ここで、個人作と工房作で何が違うか? 工房作は親方の下絵の指示で弟子(「五百羅漢」の場合スタッフの学生)が、実際の描画を行う。先に「可能性の数だけ世界が分裂する」と述べた。一つの描線でどれだけの世界が分裂できるか? つまりどっちがより多くの「多世界の重ね合わせ」であろうか? 答えは簡単。弟子が親方の意図(下絵)に忠実であればあるほど、自由度すなわち可能性は少なく、世界の分裂は少ない。他方、個人の意志のおもむくまま描いたものは可能性が多い、すなわち一つの描線における重ね合わされた多世界が多い。そう、それが工房作と個人作のエネルギーの差として鑑賞者には感じられるのである! どうだい! すげえ科学的な理論だろう、自分でもホレボレしちまうなぁ(すげえヘリクツでもあることはイチオウ承知である)。かくして村上隆の「五百羅漢」が、大きさの割にエネルギーを感じさせないことが納得いった。
まあ実際の理由は前者(工房作という情報)だろうなあ。

さて、そんな村上の工房作である指示書というか下絵もちゃんと展示してある。先の理屈か気のせいか、下絵の方が生き生きしている感じがしないかい? あと4つの「五百羅漢図」についての絵の解説。これはこういうことを描いていたのか分かる。

その後またデカい部屋で2つ「五百羅漢図」の続き「玄武」「朱雀」。なんか太陽系の絵とか、鳳凰……というか、解説によれば手塚治虫の火の鳥も入っているらしい。その後また、あれこれあって映像があって終わり(映像見てない)。

とにかくスケールはさすが世界レベル。あとアクリルやら金箔、プラチナ箔の質感で魅せているところがかなりある。贅を尽くした村上ランド。個人的にゃそこらじゅうのシャッター音が結構気に障るんだが、まあシャッター音があったからどうって作品でもないんだけどねえ……
http://www.mori.art.museum/contents/tm500/

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