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2016年6月26日 (日)

「生きるアート 折元立身展」(川崎市市民ミュージアム)

あまり知らん人だったが、ちゃんと見るべき人だと思ったので、トークイベントに申し込み行ってきたのだ。顔にパンをくっつけて出歩く「パン人間」や、要介護の母親を出して一緒にパフォーマンスする「アートママ」シリーズは一応知っていたので。しかし川崎、アクセスはよくないけど、いい施設持ってるなあ。あと、せめて6時までやっててほしいな。2時からのトークが結局4時過ぎまでかかり、かといって役所だから時間通り閉館。じっくり見る時間がなかったぞ。

会場が2つに分かれていて、第一会場。展示はアートママから。以前見た映像作品「ベートーベン・ママ」。ベートーベンに合わせて母親の髪をワシャワシャやるパフォーマンス。あと今回「プレスリーのおむつ替え」というのがあり、プレスリーのお面をかぶって、母親のおむつを替える。単に面白いというわけではなく、かといって悲壮なわけでもなく、リアルがベースになっているから力強い表現である。で、これがなにものかはあとで分かってくる。
その関連で「おばあさんたちとの食事」という企画パフォーマンス。これはおばあさんたちを集めて食事会をする、というもの。ポルトガルでは500人集めてやり、その映像がでているが、なかなか壮観。アートかというとただの食事会のようだが、これはこれで楽しそうだからいいんじゃないか。アートママから連続しているし、アートだと言えばそれはアートだ。
「ガイコツ」という小さい落書きみたいな絵が大量に並んでいる。これ何か? もちろんガイコツがあれやったりこれやったりを描いているのだが、ヘルパーさんに代わってもらい、介護を少し休んでいる時に、飲み屋で描いたものらしい。ストレスがぎっしり溜まっているのを、絵に昇華する。その物量こそが折元のアートのエネルギーであると同時に。介護の辛さでもある。年齢的にはもう老々介護だもんなあ……来た医者に母親より自分の方が大丈夫かと訊かれ、海外行きで通風を起こして苦しみ(マジ痛いらしい)、妻子もいない。想像でしかないがやっぱり相当キツい。で、これらはいわゆる上手な絵ではない。しかしホンモノの迫力。トークイベントで曰く「アートは技術ではない。生きざまだ」。まさに。
それからまたアートママ作品。トイレをボッスやブリューゲルの絵だらけにして、母親を座らせた写真(これも撮影が大変だったらしいが、母親は拒否はせず。早く終わらせろと言ったとか。一応息子のやってることを理解はしている)。次が「アニマル・アート」ということで、最大の作品が「子ぶたをおんぶする」というもの。子ぶたが折元の背中でうっとりしているようないい感じの写真があるのだが、映像も同時に出ていて、四苦八苦大騒ぎしている。他にもアヒルと戯れたり、ウサギだったりヤギだったり。一見コミカルだけど、その背後にはコミュニケーションを取れない相手とコミュニケーションを取ろうとする狂気も感じられる。これは重要なことだが、優れたアートには必ず狂気がある。狂気の成分がないアートなど面白くもない。あと、トークイベントで曰く「自分の作品は暴力と思いやり」その共存。動物とコミュニケーションを取ろうとするのは暴力あり愛である。おお、それは錬金術の言葉「相反するものの一致」に違いないではないか。そういえば、先の「ガイコツ」も暴力的な絵が結構多い。母親への思いやりと、ストレスからの暴力衝動の昇華。「ベートーベン・ママ」だって結構暴力的だよなあ。そうそう、子ぶたおんぶにはドローイングもあり、そこでは子ブタが「I hate this performance」(このパフォーマンスはイヤだ)なんて言って暴れている。不毛だが、愛だよ愛。
「オリモト・スタジオ」の再現。部屋です。きれいじゃないです。でもここから世界的なアートが生まれるのだ。

第二会場。ドローイング。マジ大量に出ている。こんなに描いていたのかと思うくらい出ている。それからパフォーマンスの記録。特に「処刑」。ドイツで観客の婆ちゃんを泣かせた壮絶なパフォーマンス……といっても内容は、目隠しをされて縛られた死刑囚が、首から下げた箱に入っているパンが落ちるまで悶え苦しみ、パンが落ちたら処刑されたということで、その場で倒れているというもの……なんだけど、コミカルなはずのビジュアルが何とも本物の処刑のように感じられてくる不思議。何かの本質を突いているのだ。
あとは新聞記事など大量に出ているがあんまり見てる時間がなかった。

トークイベントで、氏は延々しゃべる。「日本は天才を作ろうとしていない。天才を必要としていない」と言う。アートの概念を変える天才が出てほしい。そんな日本の美術界(現場で見ようとしない上の方のヤツラ)への不満。子ぶたを背負った写真を出そうとして豚はちょっと、とか言われて頭にきた(あれは愛なんだ)。ヴェネチアビエンナーレに出る連中を選んだシステムへの不満(自分で探しに行かねえ連中が評判だけで決める)。アーティストは政治に関わっちゃダメ。ルーズなアーティストが多すぎる……と、いろいろお怒り。それから草間彌生まであのドットはコイン(つまり金)じゃねーかと非難……いやいや私は草間彌生も好きなんだけどな。でも草間の自伝を読んで、かつて彼女がニューヨークのパフォーマンスクイーンだったことを知っているんで、その不満も分からんでもない。あと、自分の作品は暴力と思いやりであるという話。自分の生活から出てきている。だから本物だし、世界に通じるのだ。いっぱい人に会え。自分の顔を見てみろ。リサーチ力が顔に出る。311の作品など作らん。日本の美術館に自分の海外での美術展ポスターなど送っているが誰も来ない。一枚一枚自ら手で折って、封筒に入れ、宛名も手書き。世界の折元がこんな努力しているのにスルーかよ。今後誰か作品を買いたいとか来ても「お前川崎を見たか」と訊いて、見てなかったら相手にしない。TOO LATEだ。もう日本は嫌になった。ベルリンに住みたい。アートはテクニックではない、生きざまだ。
そういえば、この怒りっぷりは我が尊敬する短歌絶叫、福島康樹に似ている。あの人も今の短歌界はぜんぜんダメだと言い、本物は世界に通じるんだと言い(言葉が分からなくても短歌絶叫は通じた)、自分に絶対の自信を持っている。

単にキレイなだけのアートなどウンザリの君に。これ、もうすぐ終わってしまうから、行くべし。
http://www.kawasaki-museum.jp/exhibition/orimoto/

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2016年6月19日 (日)

声ノマ 全身詩人、吉増剛造展(東京国立近代美術館)

えー、実はわたくしは詩の世界にも身を置いており、詩を書いたり、詩を人前で朗読したり、ついでに、観客から「お題」をもらって、その場で「即興詩」をいきなり口にする、というパフォーマンスもしています……いやいやそれ「詩」というレベルのもんじゃねぇよという方も多々いると思うんですが、でもまあ、口に出したことを字に書き起こせば、まあ一応、詩と言えんこともないよなあ、ぐらいのもは創る自信がございますですよ。
んなわけだから、よく行ってる近代美術館が詩人の展示やるってんだから、これオレ様が行けば無敵じゃん……と勇んで行ったんですけど、えー、すいません、わたくし、詩を書くことはあっても詩はほとんど読んでないんです。中原中也ぐらいは読んでますが。吉増剛造、知りません……じゃあダメじゃん! はいダメです。少なくとも、基本的に、多少は事前にこの人の詩を読んでいった方がいいです。丸腰じゃボケーと見てるだけで終わります。

……ってなことは一応想定内です。まあ、目的はパフォーマンスだしぃ、2時からだしぃ……1時頃行くかぁ。で、行きがけに気づいたが、「先着100名 要整理券 整理券は10時から配布」って。え? もしかして100名越えたら入れない? ヤバいじゃん……ってか、なんでこんな情報今の今まで見落としてたんだよっ! 自己嫌悪の極みでうああああで……ツイッターで見たら、既に「滑り込みで整理券ゲット」なとと書いてある。ナニ今の時点で滑り込みダト? ……じゃあダメじゃん! はいダメ……じゃなかった。行ったら整理券番号128番。なんだよ100人越えても入れてくれるじゃん……やれやれ。 

で、先に展示を見ますと、日記だの覚え書きだの、なにより大作「怪物君」(という作品)のナマ原稿! これは、きっと、ファンには垂涎。加筆修正の跡も生々しく多いしね。おっと抽象画みたいなのも並んでますよ。オレ的には、銅板に刻んだ作品が視覚的に面白かった。あと映像。個人で見れるビデオ映像集。これがまた、1つ2、30分のが数作あるけど、なんかしゃべくりながら撮ってるヤツ。うん、とてもじゃないが全部は見れない。録音したカセットテープ「声ノート」がずらっと並んでいるのは壮観。それにしても……気のせいか、いや多分気のせいじゃないと思うけど客層が普通の美術展と違う。あの、詩をたしなんでいる人の雰囲気ってのかな、「東京ポエケット」っていう詩のマーケットイベントがあって、今年も7月始めにあるんですけど、あの人々の雰囲気って感じがするするするよね……あーなんかでもアウェー感がひしひしする。嗚呼こんなはずでは……ってなことやっているうちにパフォーマンスタイムが迫る。

整理番号順で100番越えで入ったところ……なるほど、100番までは座れるけど、それを越えると立ち見なのね。主役、吉増剛造氏本人、既に中央に座っている。しかも既にマイクに向かってごにょごにょ言ってるけど、内容が結構面白くて、ノートの罫線がケイコちゃんでとか何とか(←面白くてとか書きつつ覚えてないのかよ)で、あーなんかこれ、「思考ダダ漏れ」みたいな感じ? でもなんか、ちゃんと詩人の言葉になってるんだよね。あと彫刻家の誰それさん手作りのハンマーを持っていて、そこらのものを気分の赴くまま叩く。競演は「空間現代」という三ピースバンド。
で、始まって、このバンド、リズムが複雑でアンビエント……じゃないよな。調べたらマスロックって言うそうです。要は単純な縦ノリのなんたらビートじゃなくて、もっとアートっぽい感じがする凝ったリズムの。えええYouTubeででも見てくれ。そのバンドの音が結構デカい……もんで、剛造氏の声も対抗して意味不明な絶叫系になってくる。時々音が静かになると、ごにょごにょ系の面白テキストを読み始める。しかしすぐバンド音。うーん、静動のコントラストはいいんだけど、バランス的にもう少し「静」が多い方がよかったですねえ。終盤は剛造氏、疲れたのか音楽に身をゆだねる気分になったのか、ハンマーも叩かず、ほとんど何も言わなくなっちゃった。でも、面白いことに、詩人というものは、そこにいるだけで詩を放つのだ。

で、ここでオレにしか書けないであろうことを書いちゃうと、経験上、っつーかまあ、わたくしの経験などタカが知れておりますが、あー一応参考にね、ステージ上で詩作品として何か言う時はテンションが上がっているというか、ある回路を通した言葉を出してる感じがします。日常の言葉を出してるのと違う経路で言葉が出てきます。それを通すと、何を言っても作品になります。なるんです。でもこれ、わたくしテンション上げないとできません。しかし吉増剛造氏、ビデオ撮ってても、ステージ上で開演前になんかしゃべっていても、ニュートラルでその回路をオンにしている。んー人に何かを頼む時だけ回路を切っているかな。そう、これまさに「全身詩人」ではあるまいか。

パフォーマンスのあと、アフタートークショーがあったんだけど、なんか立ってんの疲れたんでリタイア。でも値段分は元を取ったぞ。
http://www.momat.go.jp/am/exhibition/yoshimasu-gozo/

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2016年6月12日 (日)

もっと知ろうよ! 儒教(東洋文庫ミュージアム)

「儒教」ってよく聞くけど、どんなもんなんだ? あのう、なんか男尊女卑っぽいの? というような疑問にお答えする企画……と思っていると、意外とこの手の企画はそうでもない。そう、去年だったか同じ東洋文庫ミュージアムのイスラム教にのに行って、どう誕生して派閥がどうでどう広まっていったか、という情報とか、実際の文献(一応貴重なもん)は拝めるんだけど、じゃあイスラム教ってどんな内容なの? っていう情報はそんなに多くなかった。今回の儒教はそれ以上で、孔子の言葉がいくつかあって、あと儀礼を重んじるよとか、天が大事だとか、仏教とはこう違うんで批判してたよ、ってな情報はあるが、あとはその歴史的な発展やら世界への広まりやら、その情報と文献が並んでいるというわけ。私の期待していたのは儒教というものの内容そのものだったが、それはほとんどといっていいほどない。「素朴な疑問に答える」ってなっているけどさあ、最も素朴な疑問は内容がよく分からないことなんだけどなあ。

この「期待外れ」はどうして起きるのだろうか? それはですね、そもそもミュージアムってのがそういうもんだからなんだな、と気づくべきであった。諸君、以前科博で「チョコレート展」やってたけど、そこでチョコレートを試食できるわけではなかったではないか。生産過程とか、歴史とか、どこの国でどうたらとか、そんなもんだったではないか。いや、でもさ、「チョコレート展」でチョコが食えないってのは、まあ分からんでもないと思わんか? 普通に食っているし。でも儒教って身近じゃないじゃん(何点か身近なものがあるという説明はあった。葬式で遺影に焼香するとか)。「儒教展」で儒教の内容が分からないという点に不満なのは、チョコレートと違って、その内容そのものというものがパネル展示や絵やらで説明もできそうな「情報」だからではないか。そして、展示はそうあってもいいと思うではないか。でもまあミュージアムとしては多分、内容なんぞ孔子の本でも読めばいいでしょう。それより貴重な文献を知ったり知られざる背景を勉強しましょう、というのが立ち位置なんだよ。内容の本は一応売ってるし。

そんなわけで、そうね、興味を持った事項は先に書いた「天」の話。天からの使命を授かる「天命」、そして天命により人々を統率する「天子」、人々の行いは天に影響され、また行いが天にも影響する「天人相関」。人々の考えが場に影響を与える「シェルドレイクの仮設」に似ているような似ていないようなまあ多分だいぶ違うような。あと、八卦ってあるけど、あの陽爻(-)と陰爻(--)ってのがあれ2進数000~111なんだな。

ところで、ポスターやパネルになぜかガチャピンとムックがいる。フジテレビKIDSが支援しているのね。フジテレビといやぁ、だいぶ前に(今もか?)韓流押しで叩かれていたが、こういうのを見ると、やっぱし儒教の本場と浅からぬ関係にあるのかな、と思ったりするわけです。
ところで私は正月に湯島聖堂に行った折、孔子の鉛筆買ってるのさ。「温故新知」と書いてあって、美術館でのメモに活躍しているんだじぇ。
http://www.toyo-bunko.or.jp/museum/exhibition.php

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2016年6月 5日 (日)

熊谷守一美術館

実は家から自転車で行けるほどの近さにありながら、今まで一度として行ったことがなかったのです。「三十一周年展」やってたので行ってみたのです。
入ると一階にカフェがあって、コーヒーのいい香りがするんですな。感じとしては弥生美術館なんかに近いですかね。

一階の展示室から。油彩。うーん、この人の絵をまともに見るのは初めてかもしれん。小さめの絵が多い。最初に自画像。次の「夕暮れ」というのが二重丸で抽象っぽいんだけど、塗りがキッチリしていて。いいマチエールですっ。絵の具の筆跡のテカリ具合というもんがね、これは印刷や画像じゃ分からないぞ。シンプルな描線と平面的な塗りの作品が続くが、いきなりフォーヴというか荒っぽい描線の作品が出てくる。どうやら最初はこういう路線でいって、途中からシンプル線と平面塗りに変わったようですね。ま、フォーヴといっても原色ではなくて、色は普通。あくまで描線の荒さで。「式根島」なんてこれ指で描いてるんじゃないのかね。「水郷風景」や「松原湖」は遠目で見ると、リアルな感じが分かるぞ。うん、ヴラマンクほど技は感じないけど、いい感じなのは分かる。「風」なんていうのもイタリアン印象派みたいで、外光じゃ原色じゃという明るさにこだわらない、おとなしめの印象という感じだ。虹もいいよな。でも、この絵はすごい初期みたい。

二階の展示室も、シンプル系とラフ系が並ぶ。特にラフ系は「百合」だの「ハルシャ菊と百合」だの「顔」だの裸婦だのはラフラフで、もはや遠目で見ても何だかよく分からない。こういう場合は抽象モードにして、これは気分を描いた抽象画だと思って見ると、うん、まあなかなかだ。このフロアのメインは大きめの傑作「某婦人像」。ラフ系なんだけど、これはちゃんと写実っぽい印象で描いている。何より、この女性像、妙な存在感があって、大抵の人は見ただけで「うむっ!」となってしまう迫り方をしてくるぞ。

三階もある。ここは書と墨絵。書のユルさは先日の横井弘三を彷彿とさせるが……まー、これは横井のがユルさにおいて勝ってるかな。それより墨絵の「夏」の最小限な描線での表現は見物です。「三日月」なんかもいいね。ミロの絵で余白が多いやつがあるが、それと同じっぽい印象だ。あと、通常この三階は貸しギャラリーで、通常は熊谷ではない人の展示をしているようです。

あと、ここは熊谷の自宅だったようで、イーゼルだとか、チェロだとか、そうそう食卓テーブルを削った作品とか、立体ものとか、絵だけじゃなくてそういうのも豊富に並んでおるよ。
http://kumagai-morikazu.jp/

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