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2017年6月17日 (土)

ジャコメッティ展(国立新美術館)

先日実家に行った時に、ジャコメッティそっくりな、古代イタリアのエトルリア文明だかの細長い人物像(Ombra della sera)の置物があって、あージャコメッティはこれを参考にしたのかーと思ったのだが、この企画見るとなんか違う。ジャコは自らあのスタイルを生み出したようだ。そっくりなのはたまたまそうであっただけのようだし、よく見ると印象もずいぶん違う。
見れば分かっちゃう細い人物の彫刻。展示物の多くはそれだけど、それだけじゃないんだな。

最初は典型的な細人間「大きな像(女:レオーニ)」がある。おなじみだけどあらためて見ると、ふふーん、女ってえだけあって、髪は長めだし胸もあるし腰もくびれとるんだな。
それから初期からの作品。18歳での絵画「ディエゴの肖像」弟ね。うまいが普通。16歳での彫刻「シモン・ベラールの頭部」おっとこりゃうめえな。16歳でこのレベルかよ。人間の頭そのままじゃねえか。してみると、彫刻より平面の方が難しいみたいだな。まあ古代美術もだいたい彫刻の方が先行してリアルだしな。それからしばらく初期の彫刻が続く。抽象的なのが多いが、まだ細い人物やってない。「キュビズム的コンポジション - 男」のレンガ積んでるみたいなのとか、「横たわる女」はピカソ風というか、まるでスプーンだな。と思ったら「女=スプーン」なんていう、そのまんまなヤツもあった。しかし「鼻」という作品で、横につぶれたスタイルが登場。細い頭部だけど鼻が尖っていて長い。蚊の頭かよ。

小像のコーナー。年代的には「鼻」より前か。ジャコメッティは自分が見たものを、見た通りに残したくて、もうめちゃくちゃ悩んで、モデルと空間的に距離があるもんで、まずは小さくなっていったらしい。小さい人物像。これがマジ小さいもんで驚きだ。
それから女性立像へ。小さいばかりではマズいんで大きくしていった。ところが異常なくらい細くしないとどうもしっくりこない。見た通りをいっぺんに残すんだとかやってるとそうなるらしい。いやしかしこれはアレだな、セザンヌが静物画で、その静物の見たいところを全部一気に一枚の絵にガッチリ残すんだ、とかやって方向や遠近が妙な入り乱れ方をするのを描いたが、そういうのに似ている。ここら辺からおなじみな感じの、細い棒みたいな女性像乱立。同時に、絵も描いてて、ドローイングの人物画がチラホラ出てくるのだが、これが結構クる。ぬううキてますキてます。「正面を向いたアネット」エッチングだけど顔がゾンビみてーでな、「裸婦立像Ⅱ」……うーん、普通に描いているように見えて、なんか緊張感が高いんだよね。なんでかな。

群像のコーナー。おなじみの細い人物をいくつか使ったヤツ。「森、広場、3人の人物とひとつの頭部」タイトルまんまで、細人物と頭部の彫刻が集まって、土台を共有しているだけなんだけど面白いねえ。「林間の空地、広場、9人の人物」なんてもう細い柱9本って感じだわな。でもジャコテイストビンビンな感じがナイスだお。「3人の男グループⅠ(3人の歩く男たちⅠ)」は文字通りだが細いヤツが歩いておる。

書物のための下絵のコーナーがあって、えええ鉛筆描きの細人物は、オレにも描けそうな感じだなー。次、モデルを前にした制作。また絵に挑戦なんだけども、やっぱしモデルを前にしても見た通りを見た通り残せるかとか自分との戦いをやっているので、描線はラフでもえれえ時間がかかり、モデルを長時間というか長期間拘束してたらしい。リトグラフなんだけど、とにかくササッと描いてあるように見えて、実は脂汗ダラダラで絵とバトルしながら描いてるとしか思えない妙なテンションがある。しかし思うにこれ、見た通りに、だけじゃなくて、こんな長時間拘束して怒ってないかな、怒りたいけど怒ってないだけじゃないのかな、でも絵がぜんぜんできないし、なんていう感情面での緊張もあったんじゃないかなあ、解説には書いてないけどね。だって描いてある顔がヤヴァいんだもん。アウトサイダーアーティストが描く顔みたいに、なんか病んだ雰囲気があるんだよね。「カフェにて」とか病んでる。「自画像」はビョーキ。「男の頭部」うむヤヴァい。「横たわる女」これは割と普通。
しかーしお楽しみはこれからだっ。次のマーグ家との交流のコーナーにある油彩「マルグリット・マーグの肖像」うわっ! マジすかこれ。マジヤベーっすよこれ。今回の全展示品の中でこれが一番インパクトがあり、異様な味がある。なんて言うか……肖像なのかこれ? いや、抽象画じゃないよ。ちゃんと肖像描いてあるよ。でも、人間を書いている感じがしないというか、テンパって描いてるというか、描いては消し描いては消ししているうちにドツボにはまったヤツというか、人間の知られざる何かを描こうとしてにじみ出ているというか、表情を描いたらそのことによって相手の表情が変化して、それを描いたらまた表情が……という無限ループにはまった果ての絵というか、とにかく形容しがたく単に不気味では済まない何かがあーる。

次は矢内原伊作のコーナー、大阪大学文学部の教授だった矢内原伊作とつきあっていて、モデルもやってもらった。忍耐強い東洋人ということで、つきあいは長く続いたようだ。ペンや鉛筆で描いた肖像。さりげなく見えて、これも時間かかっているようだ。それからパリの街の絵、悪くはないが、緊張感も少ない感じで人物肖像よりは楽そうだ。あと猫と犬の彫刻もあり。いずれもジャコメッティ風に補足変形を余儀なくされている。よくできてるけどね。それからスタンパという土地の名前。そこに関する絵。静物のコーナーでは、なんとジャコメッティがセザンヌを尊敬していたと判明。やっぱそーかー。油彩「林檎のある静物」は、ああセザンヌだなあ、と感じる次第。

次は「ヴェネツィアの女」という連作。一部屋でこれだけだ。おなじみ細人間群。9人おる。当たり前だが一人一人同じように見えて違うのだ。次の部屋がクライマックス。チェーズ・マンハッタン銀行のプロジェクト、ということで、壁際にごく小さいのもあるが(ここまで来る途中にも壁に穴あいてて見れる)、非常に大きい作品を展示。大きいのは「大きな女性像Ⅱ」「大きな頭部」「歩く男Ⅰ」という3つ。この部屋だけは撮影可能。SNS野郎どもには嬉しいかもしれないが、美術品の写真なんか撮るもんじゃないと思う俺にゃあ単なるシャッター音がウザい部屋だ。作品はデカくて見応えあるけどな。あとは詩人とのコラボが少しと、パリのリトグラフ「終わりなきパリ」が少しあって終わり。

ジャコワールドにタプーリ浸れてなかなか面白い。始まったばかりだが混んでくるかなあ。テレビでの放送次第かな。ま、早めに行くに越したことはないな。
http://www.tbs.co.jp/giacometti2017/

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2017年6月15日 (木)

美術館でナンパはできるのか

なんでも「ちょいワルジジ」になるには美術館へ行き、牛肉の部位知れ」なんて記事だか文章だかが話題になっていて、そういえば私は10年ぐらい前に「モテる美術鑑賞」というフリーペーパーをコソコソ書いていた時期があり、Vol.5に「美術館でナンパ」の回がありました。いま読み返してもあまりにバカバカしいので、ここで全文公開してしまえ。

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ここ(Vo.4)まで読んできて、諸君には湧き上がる一つの疑問があると思います。
 美術館でナンパはできるか?
 今回はこの大問題について書きましょう。はい、普通はできません。なぜなら、いくらお嬢様が一人で美術館に来てたって、それは美術鑑賞に来てるのであって、ナンパされに来てるわけではないのです。そもそも何て声をかける気ですか?
「ねえ、お茶しない?」
 入場料のかかる美術鑑賞を放り出して、見知らぬ野郎とお茶しに行くバカ女はおりません。鑑賞中じゃなくて、見終わってからとか、外の売店とかで声をかければいいじゃんと思うかもしれません。ただ、それでは普通のナンパです。君がイケメンで知性的で優しい雰囲気ならいいのですが、恐らくサカリのついたケダモノが顔に出てしまって、危険人物とみなされてしまうと思います。いや、でも、ヘタな鉄砲も数撃ちゃ当たるかもしれん。君にノコノコついていく娘もいるかもしれん。でも君についていくということは、誰にでもついていく。他の男はもちろん、キャッチセールスや新興宗教にもノコノコついていくということで、つきあった後で君が苦労することは目に見えています。

 従って、君は次のような手段を取るとよいでしょう。美術館に入ったら、観客の中で最も若くて美しいお嬢様を探すのです。親付きでもかまいません。また、その際に、なるべく胸の大きい人を探しなさい。次に、君は、そのお嬢様の前におもむろに立ち、素早く両手を伸ばし、お嬢様のふくよかな両胸を思い切りつかみなさい。もちろん通報されると思いますし、ムショに入るかもしれません。でもいいじゃないか。君は美術館に来ている巨乳のお嬢様の胸をワシづかみできたんだぜ。その思い出だけで一生、生きていくんだ。どうせ君の人生なんてこれ以上のことは起こらねえよ。
 という、ミもフタもない真実はさておいて、多少マジな話をすると、一人で来てるお嬢様だって、きっかけさえあれば誰か素敵な男性と美術のお話ができて、カレシにならないかなあ、ぐらいは思っているはずです。

 何か不自然でないきっかけはあるのか?
 はいはい、意外と簡単にあるのです。大抵の美術展には「ギャラリートーク」というのがあって、学芸員が展示品の解説をしてくれます。客は流動的に集まっているので、ターゲットを見つけたらその隣に立つことも簡単。集まっている以上、隣に声をかけるのも、そんなに不自然ではない。ただ、問題は、何て話しかけるか?
「終わったらお茶しない?」
 だから、普通のナンパは貴様には無理だっての。ここは一つ、モテる美術鑑賞的な手段でいきましょうよ。知識を持たずとも会話の肥やしとなる美術作品を選ぶ必要があるのです。
 時計が溶けてる絵でおなじみのサルバドール・ダリ。彼の絵は偏屈的で意味ありげな、いろんなものがこまごまと描かれているのです。従って、君はド近眼のふりをして、絵を凝視し、ゴミがくっついたような細かい部分を見つけて、おもむろに隣のお嬢様に話しかけるのです。
「すいません、あれ何が描いてあるのでしょう? ちょっとここからじゃ見えなくて……」
「自転車に乗っている人ですが」
「どういう意味なんでしょうかね? 走って逃げたいとか」
「そうですね、私としては……」
 という感じで、話が自然に進むはずです。あとは前回の抽象画のように、ひたすら自分が見た印象だけ話せばいいのです。何も考えることはありません。会話が途切れないまま見事、出口までたどり着けば、茶も行ける。ホテルにも行けるかもしれません。
 ダリの他にも、エルンストとか、キリコとか、デルヴォーとか、近現代美術の連中には、何か意味ありげなものを描いて喜ぶ画家は少なくないです。展示作品を事前にチェックして、どの部分に注目するかを決めてから挑むのも一興。

 しかし、筋金入りのお嬢様には、これでもまだ警戒されるでしょう。従って君は、やや強引な手段を取る必要があります。
 気持悪い絵の前で、気持悪くなって、お嬢様の方に倒れてしまうのです。お嬢様なら、まさか急病人を放っておくわけありません(放っておくならそれはエセお嬢様です)。
「あの、どうなすったのですか?」
「す、すいません。あの絵を見ていたら、気分が悪くなって」
「あら、大変」
「あなたは平気なんですか?」
「あの絵を見ていると、画家の悲しみが伝わってくるようですわ」
 という感じで話が進むはずです。(※お嬢様の方が倒れたら君が介抱すればよいのだぞウヒヒヒ)
 そんな気持悪い絵を描く人がいるのか? はい、一人いるのです。H・R・ギーガー?(※映画「エイリアン」のデザイナー) 惜しいけど違うな。その画家の名は、「ズジスワフ・ベクシンスキー」といいます。ポーランドの画家です。廃墟のような、幻想世界のような、死体のような、ゾンビのような、見ていて思わず背筋が冷たくなってうえええええええ、となるキモチワル~イ、しかし美術館に飾るにふさわしい美しい絵画作品を描いております。うーん、実物を見たいもんだぜ…… でもやっぱりキモチワルイから、展示されないんだろうなあ……じゃあダメじゃん。

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ちなみに補足すると、例の記事みたいに「知識をひけらかす」のはやめた方がよいと思います。あとギャラリートークですが、学芸員の顔はちゃんと立てましょう。「俺の知識で論破してやる」なんてのはもってのほかです。印象が悪くなるだけでモテません。
もう少し補足すると、私は美術館でナンパしたことはありません。たとえできても気の利いたメシ食うところなんか知らんので、あとが続かないです。

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2017年6月11日 (日)

絵画は告発する(板橋区立美術館)

館蔵品展である。ここは企画もなかなかいいのだが、いかんせんアクセスが悪い。まー周囲に公園とか観光地らしきものとかあるんだけども、駅からも遠いしバスは少ないし、もちっとなんとかならなかったのかなー

さて、共謀罪反対渦巻く昨今、現在の芸術家詩人諸氏もまた反対の大合唱、曰くこれ戦前そっくり、このままじゃ何も言えない表現できない社会になるぞ恐ろしいぞとか。じゃあ実際その戦前はどうだったのかってのがかいま見れる企画なわけですよ。

最初にプロレタリア運動に関する作品。社会主義がまだバラ色でカッコイイイメージだった頃、ロシアの社会主義リアリズムを意識した作品を作るのが流行だったんだって。寺島貞志「コムソモルカ」はロシアの赤いネーチャンで、たくましいかっこいい。このプロレタリア運動は治安維持法で弾圧を受けてしまう。うおおお共謀罪もきっとその再来じゃあ~……うん、でもいまプロレタリア運動なんてやってない。いや、やってるのかもしれないけど、もう社会主義に憧れる人も少ないだろうに。反政府を叫ぶ人々はいかなる社会を理想としているのだろうか……

さて、当時はシュルレアリズムも盛んだった。石井新三郎「作品」とかダリ風だし浜松小源太「世紀の系図」はエルンスト風か、うん、まあシュルレアリズムは無意識なら何でもありっぽく見えて、実際は結構誰かの作風に影響されている感じがしますなあ。あと、これらの作品も当時の社会情勢に影響受けてたみたいなんだけど、直接的に何か訴えているわけでなく、まあ、なんていうか雰囲気が暗い……感じ? 結局このシュルレアリズムも弾圧を受けてしまう。

戦争中はさすがに自由に表現できない。裸体画も抽象画も時局にそぐわないと言われたそうな。しかし軍の意向に沿った戦争画なら描ける。ああ暗黒時代よ、と思うかもしれないが、軍の意向に沿った戦争画なんぞみんなクソッタレだと決めつけた連中が日本から藤田嗣治を追い出したのだよ。藤田の戦争画は決して芸術的に劣ったものではなかったし、玉砕ものなど悲惨な無常感が力強く表現されていたが、正義は我にありとする連中の糾弾の中じゃそんな指摘できるはずもなく……結局戦前に正義を振りかざして人々を戦争に持って行ったのと方向が逆になっただけで何ら変わりないじゃんねえ、という話はさておき、いかなる弾圧があれど芸術家は芸術家として、表現する人はするのだ。まあ厭戦的ってだけでアウトになる時代ではあったからねえ、表現できない人も多かったろうな。

話はまたそれるけれども、共謀罪ね「一般の人は監視対象じゃありません」なんて言われて安心してる人もいるが、一般じゃない人ってどんな人か……監視対象じゃない人だってお。基準にならねえ。美しい絵は美術館に飾ります。じゃあどんな絵が美しい絵か、美術館に飾られている絵です。と同じだもん。意味ない。でも思うに、共謀罪が成立してもすぐに何かは起こらないし(今の政府の文句言ったぐらいじゃつかまらないよ)、それゆえ「何も変わらねーじゃん」っていう人がほとんどで、反対派は煽りすぎだよバカじゃねーのってバカにされるであろう。でも、共謀罪が本当に牙をむくのは今じゃなくて、もっと戦争が近くなった時、北から飛んできたミサイルが本土に当たっちゃったとか。世の中が戦争ムードになって「さあ攻撃された以上、国民一丸となって戦おうぜ」ってなことを政府が言い始めた時(その時は多くの国民ももうヤル気になっているであろう)、その時に「やっぱり日本とアメリカが悪いんじゃない」なんてヤツ気のじゃまをするヤツラを全部しょっぴくのです。だからさ、「成立すれば今すぐ危険な世の中になる」なんて煽り方はダメなんだよ野党。またバカを見るぞ。

話を戻して、ここに並んでいるのは身近な風景を描いたところ……なんだけど、そこは今見るとやっぱし戦争中な雰囲気はある。大塚睦「荒地」の痩せた人物、末永胤生(たねお)「漁る人々」、竹中三郎「働く女達(市場へ)」いずれも働いているんだけどどこか暗い。井上長三郎「漂流」は暗い中輪郭線だけで表現された抽象スレスレ。全面的に逆らうことなく、かといって萎縮することない表現。共謀罪の危機を訴えている芸術家諸氏もこれからの時代のため、見ておいた方がいいんじゃないか。

「戦後」の人体表現というコーナーがあって、戦争を経た人達の関心は内面に向かっていったとのことだが、実はここがメインじゃないかってぐらい力の入った作品が並ぶ。寺田政明「灯の中の対話」はネズミだが、古沢岩美「女幻」のシュールな画面にリアルな女の顔。入江比呂「薪炭(戦時配給)」「群(米よこせ)」は抽象だがいかにも戦後でものがない。この辺から人体表現が加速し、糸園和三郎「像」は首がない、阿部展也「顔の後ろの顔」の異様っぷり、漆原英子が強烈で「The Sybarite-快楽を求める人-」はエレファントマンか。同じく「CLOWN」は蔵六の奇病か……って知らないか。早瀬龍江「自嘲」は顔が皿に乗っててフォークまで刺さっている。いずれも女性画家かな。なんとなくこの手の表現は女性の方が容赦ない表現するよなあ。

戦後になったものの、まだ朝鮮戦争なんかが起こっていて、戦争体験者でもある表現者達のパワーは劣らない。今も現役の中村弘「富士二合」なんだここはエイリアンの巣か。桂川寛「立ち退く人(小河内村)」は人物はさりげなく立っているだけだけど、背後にやっぱり、あるよなあ。山下菊二はとにかくパワフルで、「祀られる戦士」「壮烈(ベトナム)」ホラー画とも反軍事ともゲルニカともボッスともシュールとも、とにかく異様な表現で迫る。思うに、戦争を経てきた者たちの生々しい意識が描かせているので、なんか今時とはひと味違う。思えば我々は所詮戦後の平和生まれ平和育ち、いかに社会が危機だと認識しても、はっきり言ってチョコザイなもので、それを作品に込めて出さざるを得ないようなせっぱ詰まった感情とは無縁ではないだろうか。ええ? 現代の芸術家諸君、詩人諸君よ、口ではいかに共謀罪は危険じゃ戦争前じゃと危機を分かっていても、それを口であるいはSNSで言ってりゃプシューとガスが抜けて満足しちゃう程度の危機感じゃねーのかい。今現在、誰かこの世界の危機を作品にしちゃーいないのかい? 戦前、戦後を生きて表現してきたこれらの人々を見習うべきじゃないのかい。もう過去の連中で、ここから学ぶことは何もないのかい。歴史は繰り返すなどと言いつつ、その歴史の中で戦ってきた人々へ向ける目はないのかー

てなことを考えていた。
http://www.itabashiartmuseum.jp/exhibition/2017-exhibition/ex170408.html

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2017年6月 4日 (日)

ランス美術館展(損保ジャパン日本興亜美術館)

1300円とここにしちゃ強気だお。何があるのかな。フランス絵画らしいが。

入ったら17世紀から概ね年代順。目に付いたのはまずヨルダーンス(と思われる)……伝ヨルダーンスかい。それの「サテュロス」。酒の神バッカスの従者だって。ナイスな赤ら顔だぜ。昼に見てもヨルダーンス。それからジャック・マルモッテ「レダ」あー、あのギリシャ神話のね。ゼウスの白鳥はいるが、レダを押し倒しているシーンではないのでイマイチ盛り上がりに欠けるな。最初の目玉がダヴィッド(および工房)の「マラーの死」。え、これ有名なヤツじゃん。新古典主義のダヴィッドのね、リアルな筋肉男の魅力満載……まあ死んでんだけど。ドラクロワがあるがうーむイマイチだ……っていうかドラクロワのイイヤツはそれだけで客呼べるしな。こないだ見たシャセリオーがある。「とらわれの女」とらわれてんだから裸だ。背景は屋外だ。しかしなんだね、とらわれて裸にされてる女の絵をそこらの人が普通に美術品として鑑賞してんだからおもしれーな。シャルル・ランデル「タンジールのユダヤ人の女」うん美女だ。エデュアール・デュビュッフ「ルイ・ポメリー婦人」シャンパンの、あのポメリーの人か。オレは好きだよポメリー……もう何年も飲んでないが。ええ有名どころでコロー……並。ミレー……小さいな。ドーミエ……こないだ練馬で風刺版画を見た。こっちは「画家」という暗い油彩。クールベさん……並。ううむ、一応名が知られている人が多いけど、なんかズガッとくるヤツはないのか?

印象派あたりになってきて、シスレー……普通。ラファエリ「シャンゼリゼ」おー、これはなかなかですね。人がいっぱいで。次のピサロの「オペラ座通り、テアトルフランセ広場」も、ちょと見下ろした感じがイケますね。ファンタン・ラトゥール「まどろむニンフ」おお、ボヤボヤ画面だけどそれがよいな。ヴュイヤール「試着」作品は小さいがナビ派の人でナビ派な感じだ。ゴーギャン「バラと彫像」地味だな。ドニ「魅せられた人々」これは色がちょっとトチ狂っているところがいいね。ヨーゼフ・シマ「ロジェ・ジルベール=ルコント」人物画だが体が妙な影になっている感じがシュールの人。……って、ここまでまだ半分ぐらいで、もうこんな時代まで来たのか? 残りは現代美術か? ……と思いきや。ここまでは前菜で、実はメインがこれからなんだな。

藤田嗣治が洗礼を受けてレオナール・フジタになった場所が、実はこのランスなんだって。「平和の聖母礼拝堂」という教会があって、そこにフレスコ画を描いたのです。なもんで、フジタのコレクションが充実。展示の残りは全部フジタだお。ここのだけじゃなくて他の美術館からもフジタを持ってきて展示している。まず油彩いろいろ。「ヴァイオリンを持つこども」ほほーおんにゃの子かと思ったら男子だと。注文制作らしい。「猫」猫イパーイ。やっぱフジタの猫はいいですな。なんか顔が気高いですな。「授乳の聖母」この顔立ちは日本人じゃねえな(当たり前だが)、いやつまり、日本のセンスじゃないなってことで。やっぱフジタだ。「十字架降下」キリスト教絵画でありながら金箔なぞ使った和風。でも油彩か。おもしろい。「マドンナ」これはいいぞ……ってあとで見たらチラシにもなってた。聖母が黒人だ。モデルはアフリカ系アメリカ人の女優らしい。周りのケルビム(天使)も黒人の子供。なんとまあ斬新な(まあキリストは白人じゃなかった説もあるようだが)。

「平和の聖母礼拝堂」のフジタのフレスコ画を写真パネルで紹介。「七つの大罪」なんか見ると日本の武者絵とかああいうセンス……ありゃ、さっき日本のセンスじゃねえとか書いたが、やっぱし日本的を感じちゃうなあ。パネルのあと、いよいよそのための素描群を展示。これがなかなか。素描でもイイって作品は多くはないが、これはイイね。デカいし。「聖ベアトリクス」なんて最終的にステンドグラスになるんだけど、ガラスを支える太線を追加してるんで、実は素描が一番描きたいものが描かれている感じだ。「信徒たちと子ども」は何となく仏教画的構成だ。「七つの大罪」の素描もあるが。これも素描の方が描きたい欲を感じる。しかし暴飲暴食にせよ性的なものにせよ、罪としての欲望を描くためでも、よりよく描くためにはその欲望を十分抱え込まなきゃいけないアンビバレントなんだが(つまり聖人君子じゃ欲望の絵は描けんだろ)。画家は結構普通にそれやってるんだよね。画家ってなんだかんだ聖人じゃねえし。

あとはいつものゴッホとかグランマとか東郷青児とか。
http://www.sjnk-museum.org/program/4652.html

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