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2017年6月11日 (日)

絵画は告発する(板橋区立美術館)

館蔵品展である。ここは企画もなかなかいいのだが、いかんせんアクセスが悪い。まー周囲に公園とか観光地らしきものとかあるんだけども、駅からも遠いしバスは少ないし、もちっとなんとかならなかったのかなー

さて、共謀罪反対渦巻く昨今、現在の芸術家詩人諸氏もまた反対の大合唱、曰くこれ戦前そっくり、このままじゃ何も言えない表現できない社会になるぞ恐ろしいぞとか。じゃあ実際その戦前はどうだったのかってのがかいま見れる企画なわけですよ。

最初にプロレタリア運動に関する作品。社会主義がまだバラ色でカッコイイイメージだった頃、ロシアの社会主義リアリズムを意識した作品を作るのが流行だったんだって。寺島貞志「コムソモルカ」はロシアの赤いネーチャンで、たくましいかっこいい。このプロレタリア運動は治安維持法で弾圧を受けてしまう。うおおお共謀罪もきっとその再来じゃあ~……うん、でもいまプロレタリア運動なんてやってない。いや、やってるのかもしれないけど、もう社会主義に憧れる人も少ないだろうに。反政府を叫ぶ人々はいかなる社会を理想としているのだろうか……

さて、当時はシュルレアリズムも盛んだった。石井新三郎「作品」とかダリ風だし浜松小源太「世紀の系図」はエルンスト風か、うん、まあシュルレアリズムは無意識なら何でもありっぽく見えて、実際は結構誰かの作風に影響されている感じがしますなあ。あと、これらの作品も当時の社会情勢に影響受けてたみたいなんだけど、直接的に何か訴えているわけでなく、まあ、なんていうか雰囲気が暗い……感じ? 結局このシュルレアリズムも弾圧を受けてしまう。

戦争中はさすがに自由に表現できない。裸体画も抽象画も時局にそぐわないと言われたそうな。しかし軍の意向に沿った戦争画なら描ける。ああ暗黒時代よ、と思うかもしれないが、軍の意向に沿った戦争画なんぞみんなクソッタレだと決めつけた連中が日本から藤田嗣治を追い出したのだよ。藤田の戦争画は決して芸術的に劣ったものではなかったし、玉砕ものなど悲惨な無常感が力強く表現されていたが、正義は我にありとする連中の糾弾の中じゃそんな指摘できるはずもなく……結局戦前に正義を振りかざして人々を戦争に持って行ったのと方向が逆になっただけで何ら変わりないじゃんねえ、という話はさておき、いかなる弾圧があれど芸術家は芸術家として、表現する人はするのだ。まあ厭戦的ってだけでアウトになる時代ではあったからねえ、表現できない人も多かったろうな。

話はまたそれるけれども、共謀罪ね「一般の人は監視対象じゃありません」なんて言われて安心してる人もいるが、一般じゃない人ってどんな人か……監視対象じゃない人だってお。基準にならねえ。美しい絵は美術館に飾ります。じゃあどんな絵が美しい絵か、美術館に飾られている絵です。と同じだもん。意味ない。でも思うに、共謀罪が成立してもすぐに何かは起こらないし(今の政府の文句言ったぐらいじゃつかまらないよ)、それゆえ「何も変わらねーじゃん」っていう人がほとんどで、反対派は煽りすぎだよバカじゃねーのってバカにされるであろう。でも、共謀罪が本当に牙をむくのは今じゃなくて、もっと戦争が近くなった時、北から飛んできたミサイルが本土に当たっちゃったとか。世の中が戦争ムードになって「さあ攻撃された以上、国民一丸となって戦おうぜ」ってなことを政府が言い始めた時(その時は多くの国民ももうヤル気になっているであろう)、その時に「やっぱり日本とアメリカが悪いんじゃない」なんてヤツ気のじゃまをするヤツラを全部しょっぴくのです。だからさ、「成立すれば今すぐ危険な世の中になる」なんて煽り方はダメなんだよ野党。またバカを見るぞ。

話を戻して、ここに並んでいるのは身近な風景を描いたところ……なんだけど、そこは今見るとやっぱし戦争中な雰囲気はある。大塚睦「荒地」の痩せた人物、末永胤生(たねお)「漁る人々」、竹中三郎「働く女達(市場へ)」いずれも働いているんだけどどこか暗い。井上長三郎「漂流」は暗い中輪郭線だけで表現された抽象スレスレ。全面的に逆らうことなく、かといって萎縮することない表現。共謀罪の危機を訴えている芸術家諸氏もこれからの時代のため、見ておいた方がいいんじゃないか。

「戦後」の人体表現というコーナーがあって、戦争を経た人達の関心は内面に向かっていったとのことだが、実はここがメインじゃないかってぐらい力の入った作品が並ぶ。寺田政明「灯の中の対話」はネズミだが、古沢岩美「女幻」のシュールな画面にリアルな女の顔。入江比呂「薪炭(戦時配給)」「群(米よこせ)」は抽象だがいかにも戦後でものがない。この辺から人体表現が加速し、糸園和三郎「像」は首がない、阿部展也「顔の後ろの顔」の異様っぷり、漆原英子が強烈で「The Sybarite-快楽を求める人-」はエレファントマンか。同じく「CLOWN」は蔵六の奇病か……って知らないか。早瀬龍江「自嘲」は顔が皿に乗っててフォークまで刺さっている。いずれも女性画家かな。なんとなくこの手の表現は女性の方が容赦ない表現するよなあ。

戦後になったものの、まだ朝鮮戦争なんかが起こっていて、戦争体験者でもある表現者達のパワーは劣らない。今も現役の中村弘「富士二合」なんだここはエイリアンの巣か。桂川寛「立ち退く人(小河内村)」は人物はさりげなく立っているだけだけど、背後にやっぱり、あるよなあ。山下菊二はとにかくパワフルで、「祀られる戦士」「壮烈(ベトナム)」ホラー画とも反軍事ともゲルニカともボッスともシュールとも、とにかく異様な表現で迫る。思うに、戦争を経てきた者たちの生々しい意識が描かせているので、なんか今時とはひと味違う。思えば我々は所詮戦後の平和生まれ平和育ち、いかに社会が危機だと認識しても、はっきり言ってチョコザイなもので、それを作品に込めて出さざるを得ないようなせっぱ詰まった感情とは無縁ではないだろうか。ええ? 現代の芸術家諸君、詩人諸君よ、口ではいかに共謀罪は危険じゃ戦争前じゃと危機を分かっていても、それを口であるいはSNSで言ってりゃプシューとガスが抜けて満足しちゃう程度の危機感じゃねーのかい。今現在、誰かこの世界の危機を作品にしちゃーいないのかい? 戦前、戦後を生きて表現してきたこれらの人々を見習うべきじゃないのかい。もう過去の連中で、ここから学ぶことは何もないのかい。歴史は繰り返すなどと言いつつ、その歴史の中で戦ってきた人々へ向ける目はないのかー

てなことを考えていた。
http://www.itabashiartmuseum.jp/exhibition/2017-exhibition/ex170408.html

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