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2018年4月28日 (土)

五木田智央 PEEKABOO(オペラシティアートギャラリー)

うむ、よく知らん人だが、今現在活躍している人のようです。イラストレーションから出発し、モノクロのアメリカンな感じの、写真のコラージュ風の絵を描く……というか写真を元にしているようですが。あと、絵のタイトルはほとんどが横文字です。
 
最初の「Come Play with Me」、ヌードではないが女の人がナイスバディで立っている。なんかホラー映画で出てくる妖怪女っぽい雰囲気ですな。でもまあ、これは割と普通な見かけの方で、次からおういきなりエンジンがかかる。「Tokyo Confidential」体は普通に服なぞを着ているが、顔だけがもう顔なしで、顔んとこが無地だったり模様だったり。「How to Marry a Millionaire」では顔が犬のぼやけた写真っぽいものだったり、顔以外が割と普通なもんで一層異様ですな。「Old Portrait」は顔のアップだが、顔の真ん中が空洞っぽくて不気味だ。マグリットの「世界大戦」だったか、顔だけを花で見えなくしているというもの。あの不気味さがあるね。そういえば顔だけボヤっと崩しているのは、フランシス・ベーコンもそうだな。あれやこれや影響を受けているのか、あるいは自分で見つけていったのか。「Please Be Kind」はベッドの上に女がいるが、顔が何かで隠れている。おや、この感じは折元立身のパン人間っぽいぞ。隣の「妖怪のような植物」は文字通りだがオキーフの花ような感じだ。「花と女」これも顔が何かだ。いろいろどこかで見たような感じで攻めつつも、見ていると、やっぱり独自の世界がある感じ。「記念撮影」はアメリカンなベーコンと言ったところか。フランシス・ベーコンだったら体も歪ませるけどな。「Holiday Flight」は犬人間か。
 
部屋を移って「Sacrifice」はなんか貞子っぽい……いや、ボクあの映画怖いから見てないんでちゅ。「Easy Mambo」は縦横にずらっと小品を並べたもの。一つ一つがベーコンみたいな感じ(なんかベーコンベーコンばっかり書いてると食い物みたいで妙ですな)。「Try Me」ったって描いてある女がいまいちそそらずトライできない。「Midnight Blue」はデブ女だ。そして「Nursery Staff」は、バストアップの女性像だが、なんか普通でない。猫目で、顔もオヤジ顔だ。そういえば「PEEK A BOO」って、あちらの「いないいないばあ」って意味だよな。だから一見全体が普通でも、顔でギョッとさせる作品をそろえたのかな。「Los Lobos」はプロレスラー風の二人……っていうかプロレスラーか。そう、五木田智央はプロレスファンらしいです。で、この二人の絵は、どこかで見たような感じなんだけどなあ。デ・キリコのマネキン二体が並んでいるヤツ。「Brilliant Comers」は橋の上の人だけど、これも顔が不気味。ここまでだーっと見てくると、なんでこんな不気味な世界観で統一できるのかと思ってしまうが、まさにこれが五木田独特なものだ。うむ、悪くない。この部屋の最後に「Untitled」ということで小品が大量にまとまって並んでいる。見てるとあまりに多彩なもんで愉快になってくるぞ。
 
部屋を出て通路に行くと、「Gokita Records」これはプロレスファンの五木田がプロレスラーの似顔を描いたイラスト集。大量。しかも驚くことに一人一人描き方が違う。淡いのから濃いのから線画から、多分その人の個性に合わせた描き方をしてるんだろうけど、さすがプロレスファン。会場を出てショップなんか見ると、結構Tシャツとかあるもので、プロレスファンの界隈では既に有名な人かもしれん。
 
コレクション展の相笠昌義も人物が普通でない雰囲気で一緒に楽しめる。
https://www.operacity.jp/ag/exh208/

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2018年4月23日 (月)

理由なき反抗展(ワタリウム美術館)

ワタリウムのコレクション展だけど、ちゃんとコンセプトがある。「アートの歴史とは、自由への戦いの歴史である」なーんてことで。しかし、アート界隈も私が多少関わっている詩の界隈も、いわゆる左翼、いわゆる反自民党がアタリマエの空気で困っちゃうな。今の野党なんぞ文句ばっか言っててでロクに対抗政策もまとめられん。それでもその手の人々は「自民党支持者なんてバカ」と言い切っちゃう選民野郎達だ。しかし……なんでそれでイイのか、まさに、そこに、芸術があるのだ。
福島泰樹という歌人がいてね、短歌絶叫コンサートというのをやっていて、私は大変好きなのです。たまにしか行ってないけど。彼は昔の、死者達の魂を呼び出し、叫ぶ。中原中也、岸上大作、村山槐多……そして石川啄木。おお啄木よ。テロリストのかなしき心よ。奪はれたる言葉のかはりに、われとわがからだを敵に擲げつくる心よ。しかしその心は美しい。もう理屈ではない。価値基準はその魂が美しいかどうかだ。芸術の美しさはすなわち魂の美しさである。なに理屈では勝てない? そんなんで勝つ必要はない。ヤツラの魂が汚くてムカつくからこっちは魂の美しさで立ち向かうのだ。お前らに分かるものか。だがしかし、いかに魂が美しかろうと、すばらしいデモができようと、この国は選挙で当選しなきゃ動かせないのだよ。
えーさて、前までワタリウム企画はチケットが期間中何度入場も有効だったが、今は1回だけで1000円か、何度も入れる1500円と2種類になったのさ。あと今回は4階→3階→2階という順路だ。ここは建築は大変凝っているが導線がまずくて、4階へはエレベーターでしか行けないというエコじゃないつくりになっている。今時なら階段だよなあ。
さて4階は「レジスタンス」ということで割とポリティカルだお。オノ・ヨーコの白だけのチェスの駒がある。対戦してもどっちも白だから敵味方が分からなくなる。争いは起こらない。ピースでナイスなアイディア。でもそれでチェスやろうって人はおらんでしょうなあ。ジョン・ケージがガラスにいろいろ描いたのを重ね合わせて別の価値を生み出すという作品。それから日本から、レイシストしばき隊に入っているという竹川宣彰。レイシストが行く地獄絵(小さい)、それと棘付き金属バットが何本も。おおっ、まさに暴力革命。アナーキーアイテム。あー、これ、有田芳生が手にとって喜んでいたヤツだな。写真が拡散して何が平和主義者だ議員のくせに暴力上等なヤツじゃねーかとか言われていたが、アート作品だったんだね。実際使うつもりで作ったわけではないだろう……と思うがよく分からない。ただ、使わないつもりでも「使える」ものを作らないと意味がないぞ。その他、長い梯子とかあったけど、どういうコンセプトか忘れた。
3階は「デザイン革命」のコーナーで、まずバックミンスター・フラー。20世紀のダ・ヴィンチ。その合理的な構造による「ジオデシック・ドーム」は世界中で使われ、同じ構造が分子になっている「フラーレン」というのがあるから驚きだ。フラーのスケッチのシルクスクリーンがいくつも並ぶ。解説の冊子も参照できる。あと貴重なフラーが語るビデオがあった。一部しか見ていないが、ツール(道具)の話をしている。人類はツールを使う。一人で作って使うツールもあるが、二人以上で作って使うツールは「インダストリアル・ツール」であり、また、その作成を実現させるためには情報交換が必要だ。つまり、言語はインダストリアル・ツールなのだ。また、自然に目を向けると、蟻塚も蜂の巣もインダストリアル・ツールだ。そう、遙か昔からインダストリアル・ツールは存在したのだ。文明を捨てて自然に帰れなんてバカ言ってんじゃねーよ。自然だって昔からインダストリアルが問題を解決してきたのだ……というような感じ。有名な話なんで何度か書いているが「宇宙船地球号」と言い出したのはフラーである。ただその意味は、地球という宇宙船を大切にするため節約しましょう、じゃない。地球を一つの機関と見なし、もっとチューニングして、本来の燃料である太陽エネルギーを使うようにしようぜ、というほとんど逆。バリバリテクノロジーの人なのだよ。展示では合理性を追求して作った「ダイマクションハウス」とか「ダイマクションカー」のデッサン。このカーが3輪なんだ。何でかっていうと、地球が球形だから3点で支えるのが一番合理的なのだよ。しかし結果的に、ミスタービーンでいつもひっくり返されているダサい3輪自動車みたいな見かけになった。ま、そういう発想の人なのだ。あとはロトチェンコの立体と、マックス・ビルのいかにもバウハウスなデザイン画。
2階に降りて、ここは「理由なき反抗」コーナーで、最初にこのジェームス・ディーンの映画のポスターをもとにしたウォーホルの作品。なんと日本のポスターをもとにしている。ギルバード&ジョージのダンス映像と平面作品。キース・へリングの絵がいくつか、あとビデオ。詩人、アレン・ギンズバークのポエムリーディング映像。演劇じゃないよ。詩の朗読だぞ。なんでカンペ見ながらやってるんですか? だって朗読だもん。あとギンズバーグの写真。ロバート・メイプルソープの写真。本が読めるコーナー。
ワタリウムらしい展示作品と内容で、近頃あまり見ない傾向なので嬉しい。
http://www.watarium.co.jp/exhibition/1804rebelwithoutreason/index.html

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2018年4月15日 (日)

横山大観展(東京国立近代美術館)

かつて横山大観をDISって(けなして)いた。若気の至りである。明治期に輪郭線を廃した「朦朧体」の日本画を描き、周囲に冷笑されつつも己のスタイルを貫き通した偉大な画家である……という知識も得て挑む大観展、印象もずいぶん変わるであろうと思ったが、結果的にあんまし変わらなかった。どうもオレは大観とは感覚が合わない。んー、がしかし、どこがどう合わないんだが、ちゃんと把握したいものだなあ。
展示はまず明治期の大観から。有名な「屈原」。はい、人物画では最高傑作ではなかろうかね。もっと狂気の目をしていたかと思っていたが、今日見たらそうでもなかった。次の「静寂」……うーん、なにこの太い線画の竹は。その上の葉がモヤモヤしてて妙な絵だな。大丈夫まだ初期だ。「秋思」一応美人画なのか? いやいやなんか顔がカタい。「井筒」おっとこれはなかなか装飾的でいいですね。「夏日四題のうち 黄昏」おお、これは朦朧体風景として傑作だ。小さく鳥が飛んでいるのもスケールを感じさせてよいね。朦朧体風景ならイケるぜ大観。「迷児」人物なんだけど子供を囲んで、孔子、釈迦、老子、キリストがいる。一応朦朧風人物画。「帰帆」これは朦朧過ぎる。何描いてあるかよく分からん。「ガンヂスの木」中州にある木々を描くも……木々というより黒煙みたいだぞ。「杜鵑」ううむ……なんかヘンだ。遠くの霞んだ木々はいいんだが、近景の木々も同じようにモヤモヤっと描いてあるんだよな。いやいや、モヤモヤじゃないな。葉が多すぎるんじゃないかね。「白衣観音」うむ人物だ。で、ここの解説で妙な記述を発見。「デッサンが不得手」ぬぁに? 大観ってデッサンが苦手だったとな? 「瀑布(ナイヤガラの滝・万里の長城)」おっと大作だっ。しかし……滝かあ……確かに滝だけど滝らしくないんだよなあ。滝壺がないじゃん。滝壺のない滝は耐えがたき。万里の長城……ううむその緑のカビみたいなのは何なんだろうか。「山路」うううううキタネエ絵……いや失礼、アヴァンギャルドな絵だな(文句ばっかり)。「彗星」おっと、これはいきなりいい絵だ。地上の山とハレー彗星を描いている。まあ彗星自体朦朧体的存在だからなあ。
大正の大観だお。「放鶴」……こ、これは何かがおかしい。鶴が飛んでいるんだけど、なんか飛んでる感じがしないんだよなあ。鶴ってああやって首曲げて飛ぶのか? ここで先の、デッサンが不得手っつーのを思い出す。もしかして鶴が飛んでいるの見たことないんじゃなかろうか。「山茶花と栗鼠」うん、これは普通に栗鼠がカワイイ。「瀟湘八景」連作。例によって霞む木々はよし。松はあかんな。「秋色」これは大観作品の中でもオレが最も好きなヤツ。大量の緑の葉が1枚ずつ紅葉の途中というもんで、異様な葉に囲まれた鹿の風景。ブッ飛んだ発想にしびれるぜっ。「群青富士」なんじゃこりゃと思うがポップアート風と思えば見れなくもない。「霊峰十趣」……これもまあ、富士山なんだがのう。なんじゃ。「霊峰十趣のうち 山」なんて、プリンかよ。「柿紅葉」おっと、これも画面右から左に紅葉していくナイスな画面。実はアヴァンギャルドでダイナミックな画面が得意なのだが、その手の作品の数が多くはないのが残念だ。「胡蝶花」……ええとこの生き物は、なんなのか? やっぱこの人デッサンヤバくない? 「雪旦」おっとこれは葉が丁寧に描いてあるぞ。やりゃできるじゃん。
ここから昭和だそうで。大観は皇室大好きだったらしく、宮内庁収蔵品などある。「朝陽霊峯」デカい屏風2つで、富士山に朝日というストレート直球。うーん、こういうところがなあ、合わないんだよなあ。岡本太郎言うところの八の字文化。つまり八の字を描いたら富士山っていうお決まりパターンを臆面もなくやるヤツ。こんなヤツは「今日の芸術」はなれねえってな。「龍蛟躍四溟(なんて読むんだ?)」は龍の絵だが、渦巻き多用でこれは面白い。「春園之月」と「春園之月 習作」なんか習作の方がイイぞ。習作じゃない方は銀とか使っていたらしいがもしかして退色したか。「海に因む十題のうち 波騒ぐ」「海に因む十題のうち 龍踊る」で朦朧体よりもぐっとリアルな路線になってきた。「春光る(樹海)」も富士山が霊峰というより高い山だ。
第二会場。ここは大作「生々流転」40メートル越えの水墨大巻物。重要文化財。下絵もあるよ。見てるとなかなかドラマチックに展開する。よーしやるぞー→キバって木をいっぱい描いちゃうぞ→ちょっと疲れたから水面で間を空けよう→あーそうだオレは朦朧体が売りだったからここらで朦朧体をやっちゃお→なんか自然ばっか描いてて飽きたんで、ここらで家々を描こう→もうあれこれ描くのめんどくせえ水面だけで濃淡で変化つけちゃえ→最後は渦巻きでキメだ。まあいいだろこういう鑑賞でも。
第三会場がある! 2階じゃ。「霊峰飛鶴」はあいかわらず八の字だ。最後の方「風簫々兮易水寒(中国語か?)」はイヌの右の後ろ足がなんとも不自然でな、あー最後までデッサンが不得手だったのかーと思ったりした。
売店があっておしまいなのだ。
巨匠の重厚な日本画というより、なんかハッチャケている作品の方が目に付くぞ。
http://taikan2018.exhn.jp/

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2018年4月 7日 (土)

ヌード(横浜美術館)

だいぶ以前、東京藝大美術館で「ヴィクトリアンヌード展」をやったわけですよ。すると普段絵画なんぞ見そうもないエロオヤジどもが鼻の下を長くして(という表現を今使うか分からんが)来場し、会場内は阿鼻叫喚。いや、まさにそのノリで今回も赴きたいじゃないか。このヌード展においてベストなスタイルは、薄汚れたジャンパーとジーパン、左手に競馬新聞右手にストロングゼロ、ヌード画を前にデカい声で「なんだよこいつオッパイが小さいじゃねえかダメだダメだ!」とかやりたいものだが、残念ながら私は小心者なので、黒いデニム上下と春めいたコジャレた上着で、いかにもいつも美術館に行ってますみたいなツラしてるもんでこんなヤツはぶん殴ったほうがよい。がしかし、エロオヤジ諸君のイヤラシイ期待はことごとく裏切られるであろう。残念ながら(?)美術鑑賞的に大変まっとうな展示内容と切り口であり、天下の英国テートギャラリーの看板背負っているだけある。
入ったら客が思ったよりだいぶ少ない。そう、ポスターがヴィクトリアンヌードで、藝大ショックを覚えているアート好きマダム達が避けているのかもしれない。だとしたらちょっともったいない。男性ヌードだって半分ぐらいあるのだし、女性が顔をしかめるようなヤツは多くはない(と思うが女性じゃないから正確なところはよく分からない)。
最初のコーナーは「物語とヌード」で神話など。主にヴィクトリアンヌードで、要するに理想的な裸体表現で、エロオヤジも一応納得できるコーナー(男ヌードもあるが)。最初のフレデリック・レイトン「プシュケの水浴」はポスターのヤツでキレイ系の女性ヌード。彫刻ではハモ・ソーニクロフトの「テラワロス」……じゃないな「テウクロス」だって。男性ヌードだお。小品ながらターナーが男性ヌードを描いている。男性ヌードってヤツも見てると結構面白い。筋肉の付き方が明確なので、なんとなく生体メカ(?)みたいな……んーまあなんかそういうもんとして見れるんよ。エロオヤジ御用達ならオフィーリアでおなじみジョン・エヴァレット・ミレイの「ナイト・エラント(遍歴の騎士)」で裸で木にくくりつけられている女性を救っているところのヘンタイ画である。裸で拘束されている裸女を描きたいって画題じゃアンドロメダと同じだよね。あと、この絵は下村観山が模写してて常設んとこに展示してあるぞ。ウィリアム・ストラング「誘惑」男性を誘惑する女性。どっちも裸だ。アンナ・リー・メット「締め出された愛」は女性後ろ姿。なかなかよい。
次のコーナー「親密な眼差し」。今度は物語じゃなくて近くの人だ。印象派とかそのあたりな。ボナールの「浴室の裸婦」これ浴槽の中の足だけ。「浴室」これは全身だがほとんど浴槽の中つまりお湯の中で。見えるような見えないような、なんでこんなところ描こうと思ったんだろうか、と思ってしまうような。モデルは妻らしいが。マティス「横たわる裸婦」ううむ、日本人画家の絵かと思った。なんか「イモっぽい」顔してるんだもん。同じくマティスの「布をまとう裸婦」こっちは、マティスらしい画風だ。エドガー・ドガ「就寝」おっ、ドガにしてはなかなか丁寧に描いてるじゃないか。普通に裸婦です。シッカート「オランダ人女性」ううむ、近眼のせいか顔がイヌとかゴリラに見えるのだが。グウェン・ジョン「裸の少女」こりゃ痩せすぎや。痩せすぎのヌードにはグッとこない。しかしまあ、このコーナー女性ヌードばっかりですな。
次のコーナー「モダン・ヌード」これは芸術運動の何とか主義の中で使われたヌードね。マティスの「青の裸婦習作」がフォーヴ(荒々しく描くヤツ)だ。ヘンリー・ムーアの彫刻「横たわる人物」この辺でなんか抽象的になってくる。「倒れる戦士」これも半分抽象ってところか。このあたりはヌードだか何だか分からないのもあって、デイヴィド・ボンバーグ「泥浴」なんて、アヴァンギャルドでもうヌードでもなんでもない。ガツガツ荒っぽく描いたなんかヒデエ女性ヌード画があり、しかし誰が描いたか分かる。ピカソだ。「首飾りをした裸婦」そう、こういう点においてピカソってすごい。それで、なんだよこういう小難しいお芸術ヌードなんかどうだっていいんだというエロオヤジどもが腐るであろうところに、いよいよ次のコーナーだ。
次のコーナー「エロチックヌード」。つ、ついに来たかっ! いきなり目に入るロダンの「接吻」。裸の男女が抱き合って接吻している超有名な彫刻作品。結構デカい。この作品だけ撮影可能なので、みんな喜々としてスマフォなど向けているが、いいかよく聞け愚か者ども。こいつは止まって見るもんじゃないんだ。周囲をぐるぐるしながら見ると面白いぞ。ロダンの肉体表現はバリバリ気合い入っているので、背中からでも十分鑑賞に耐える。周囲を回りながら見ると、男性背中、女性背中、接吻シーンと移り変わってそれぞれに印象が違って昼と夜が移ろいでいくようで楽しいぞ。面白い。やってみたまえ。他にもルイーズ・ブルジョアの女性側から支配せんとする男女シーン、ホックニーの男同士のまったり生活、老いてもなお盛んな春画スレスレのピカソ、意外なところでターナー。ターナーらしい時代を超越した抽象的表現だが題材がヌード。はい、エロチックといっても、エロオヤジが喜びそうなもんはロダン以外一つもない。ロダンも微妙だが。
次「レアリズムとシュールレアリズム」 エルンストの一応エロっぽいシュール画。おなじみマン・レイの写真。おなじみベルメールの「人形」。これはほとんどビョーキの女体分解再構成。おおっとここでいきなりバルテュス!「長椅子の上の裸婦」かなり作為的な絵で、これ首が折れているのか? と思うが、折れているというほどの角度じゃない。でもなんかヘンだ。その白い靴下は何なのか、エロ演出のアイテムにも見えるが。それにしてはその両腕を広げている仕草は……と、何も異常なものは描かれていないのに絵から発散する「普通でない感じ」まさに、これがバルテュスよ。傑作だよね。スタンリー・スペンサー「二人のヌードの肖像:画家と二人目の妻」男女ヌードだけど、リアルだなあ。フランシス。グリュベール「ヨブ」うん、男だ。デ・キリコ「詩人のためらい」トルソとバナナ。デルヴォー「眠るヴィーナス」古代都市の中に横たわる裸女、立っている骸骨。デルヴォー定番アイテムを駆使した安定の絵ですな。
次「肉体を捉える筆触」なんちゅーか物質と内面だとか。フランシス・ベーコンの「スフィンクス」は再会。「横たわる人物」はヌードというか肉塊ですな。ルシアン・フロイド「布切れの側に佇む」女性ヌードだがリアルだ。ルイーズ・ブルジョアの作品いくつか。抽象的ながらなんとなく生々しい。「誕生」はフリーダ・カーロの例の絵を思わせる。たぶん知ってるだろうね。このルイーズ・ブルジョアって六本木ヒルズのデカいクモを作ったアーティストで、子供の頃に結構キツい目にあっていて、それが作品にただならん緊張感をもたらしているというもののはず。
次「身体の政治性」フェミニスト的な視点を持った作品。ここはエロオヤジにはちょっとキツいコーナーだお。サラ・ルーカスの立体「NUD CYCLADIC 10」肌色……近頃はペールオレンジって言うのかな、そのタイツに詰め物をしてまとめて、肉体のようなそうでないような、ベルメールよりもヤバい感じのものを作った。メイプルソープのリサ・ライオンヌード写真。ガッチリ系だ。バークレー・L・ヘンドリックス「ファミリー・ジュールス:NNN(No Nakid Niggahs
[裸の黒人は存在しない])」という裸の黒人の絵。またサラ・ルーカス「鶏肉の下着」ううむ……下半身に鶏肉(丸ごとのヤツ)を当てて、肉の裂け目が要は女性の開いているところに見立てている。男のオレはちょっと引き気味。しかしそれよりだ、シルヴィア・スレイ「横たわるポール・ロサノ」これは(エロオヤジには)キツい。なんとなれば、これは女性が描いた男性のヌードで野郎のフェロモン満載。要するにこれ、男性画家が女性ヌードを描くってのは女性から見るとこういうことなんだぞ、というキツーイいカウンターパンチだ。こんなん見たくねえと思えばこそ、じゃあそこらじゅうで女の前でガンガン展示しているアレはなんだってんだ女は耐えてやっているんだぞという非難の指がつきつけられる。目を背けたら負けだ。でも男のメンタルは弱いのじゃ。
最後「儚き身体」コーナー。シンディ・シャーマンが自分を撮ったヤツ。着てるけど。ジョン・コブランズによる出産直後の女性の写真。1時間儀後、1日後、1週間後で撮ってるらしいが、3枚の写真が全員違う人なんで、ちょっと変化が分からない。1時間後ってのが下に傷を押さえるものらしいなんかをはいてて……んー出産って大変なんだよなあ。男にゃ永遠に分からない世界なんだが。
ヴィクトリアンから現代まで、バリエーションが豊富なヌードの芸術世界。行って損はない。
https://artexhibition.jp/nude2018/

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2018年4月 2日 (月)

国立ハンセン病資料館

行きたい美術展がない……わけでもないが今日(日曜)は混んでそうだから、前から行きたかったここに行ってみたのだ。美術館ばっかり行ってるわけじゃないんだぜ。西武池袋線清瀬駅からバスで10分ぐらいで着く。
ハンセン病は伝染する不治の病と思われていて、患者を療養所と称するところに隔離した。放浪していたところ連れてこられた人や、家にいたのに強制的に連れてこられた患者、差別に耐えかねて自ら行った患者もいる。もちろん一生出られない。患者がいると本人はもとより家族も差別対象になったりする。で、戦後ぐらいに治療法がちゃんとできて、感染症としては非常にうつりにくいってことも分かった。でも差別や偏見はなかなか無くならないで、まだ残っていて今に至る。
内容が重たいもので、建物が重苦しくて暗いのかと思ったらそういうものではなく、きれいな建物だし、展示量も豊富だし、資料映像などもしっかりあって、一通り学ぶことができる。
多くの人は、なんてひどい人権侵害をやってしまったのだと思うかもしれないが、私はそうスッキリ怒りあるいは嘆くことはできなかった。なんとなれば……これは簡単に伝染するってのが誤りだってことが分かったから結果的に人権侵害になったのであって、その情報は分からないうちは、「やむをえない」措置だったんではないだろうか。見ると教育やら娯楽やら行事も中では行われていたので、出られないながら、一応は外と同じような状態で生活できる。まあ結婚が患者同士だけ認めるとか、断種しちゃうとか、そういうまずい部分もあるが、理念としては伝染性が高いから離れてもらって、それでも普通に生活してもらおうという、割と普通のやり方のように見えるんよ。しかしながら展示のほうはこれを「やむをえない」なんて思わせないために、あえて劣悪な生活環境やら、懲罰施設で何重も思い扉で囲った「重監房」をドンと出しているんじゃないだろうか。あと、患者が施設の労働に携わっている部分が、なんとなく歯切れが悪いように見える。「病人をむりやり働かせるなんて」という非難の視点と、「誰でも仕事を持って社会参加したい」という患者側の思いがぶつかって見えるんだな。
そういうもんだから、自分としては問題は次の一つになる。結果的に人権侵害だった。うん、確かにそうだ。でもこれ、実際に伝染性が高かったらどこまでアウトだったの? 今の時代、認知症で外に出ていってしまうお年寄りでも拘束は禁止です。違法です……タテマエ上はね。んじゃあ伝染性の高い病人は? うーん、やっぱし隔離するんじゃないか。今の時代でもそうなるんじゃないかねえ。今後、そういう伝染性の病気が発生しないとも限らないし。で、差別だって起こるだろう。さあ、どうする? ……というところが問題なんじゃあないかなあ。何か過去に誤解にさらされていた悲劇の出来事っぽく扱われているんだけど、実は今でも十分起こり得る問題なんだよね。
断種の問題はそう大きく扱われていなかった。記述はちゃんとありましたが。でも、この問題はデカいぞ。ハンセン病は遺伝しないから断種がストレートに問題になれる。「なに人権侵害やってんだぁっ!」と怒れる。がしかし、それ遺伝性だったら、どうする? 「え、えーと……でもなんかいけないような気がします」 これ理想論というか建前論というか、そういうものをガッチリ持っている人は平然と次のように答えるであろう。「遺伝性疾患を持っていても断種するなど人権侵害! 許せません。もし病気を持って生まれてきても幸せに生きられる社会を目指すべきです!」 まーこーいう人はいかに実現のハードルが高くても、自分はその理想主義者のポジションで平然と主張して、少しでも現実主義のヤツを汚らわしいと唾棄して、テメエはいつだって「人として素晴らしい考えの持ち主」でいられるんだよね。なんかね、オレはイヤなんだよそういうヤツ。理想論だけで攻めてきて現場にまるっきり理解のないヤツ。人権侵害に見える数々の事項、あるいは天下の悪法と呼ばれているものも、実はみんなが安全に暮らせるように、という配慮が大もとにあったりする。そう、悪人が人権侵害をしているわけじゃないんだけど、人はこの手の問題で「根っからの悪人」を作りあげ、そいつを責めることでオレってエライぜ善人だぜ。万事オッケーとしてしまう生き物なのだ。あーヤダヤダ。……かとっいってやっぱり断種が許されるわけはない。病気だろうが障害だろうが個性だ。しかし……ものには限度ってもんがあるんじゃないのか?
さて、展示は歴史の流れ、療養所の生活、生き残った人の活動の三部構成。第三部で、患者だった人の美術作品などが展示される。病気の後遺症でハンディキャップを背負っていても、人間らしい活動ができるのだし、人間として尊重されるべきという話だ。しかし思ったのだが、「人権」って言葉がやたら出てくるんだけど、これってなんとなく漠然としてないだろうか? あと、この言葉はね、もう氾濫しすぎて風化してると思うよ。もちろん人権、人としての権利は大事だけど、今はもちっと進んで、福祉や医療の用語である「ノーマライゼーション」や「QOL」という言葉の利用も併せて進めた方がよいと思います。簡単に言えば「ノーマライゼーション」はいかなる人であっても「普通の」生活を保証すること。「QOL」はクオリティオブライフつまり生活の質。人としての尊厳を保った生活、など、人の幸福につながる用語があるんだから、人権に加えてそういう用語を使ってみてもいいと思うぞ。
「もっとハンセン病のことを知って下さい」は、いいんだけど、「うつりにくいです」「治療法があります」という点を強調すればするほど、「うつるんだったらああいう施設はアリだったのか」「治療方がなかったらアリだったのか」なんて考えに陥ってしまう。突きつけられているところは、実はそういうところではなかろうか。
http://www.hansen-dis.jp/

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