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2018年5月21日 (月)

「ターナー 風景の詩」(損保ジャパン日本興亜美術館)

言わずと知れたターナーの風景画だらけの企画。すごくないわけがない……と言いたいが、ま、それはあとで分かってくる。
コーナー別になっていて、コーナーがそれぞれ年代順になっている感じかな。
 
最初は「地域的風景画」これ何かって言うと、絵から場所がちゃんと分かるものってことらしい。浮世絵の名所絵みたいなもんかな。最初に出ているのは「マームズベリー修道院」。19歳……にして既にデキあがっている! 朽ちた建築物の感じまでちゃんと出てる。むう天才じゃん。とはいえ、私なぞが驚嘆する半分抽象画につっこんだ「あの」ターナーではない。「ソマーヒル、トンブリッジ」がデカい。ちょいブワッとしている。水面グッド。水彩が多いが、版画も多くて「メゾティント」という技法が冴える。これで筆で塗った濃淡みたいなのを表現できるのだ。どういう技法かは解説を読めい。イギリスの、よく知らん風景ばかりだったが、「ストーンヘンジ、ウィルトシャー」おお、あのストーンヘンジぢゃないか。それにしても雷が描いてあり、雷に打たれて倒れている人、なんてのも描いてある。変な絵でもある。
 
次は「海景」のコーナー。いよいよ本領という感じですな。「インヴェラレイ城の見えるファイン湾」これは空がそれっぽい……とメモしてあるが忘れた。「風下側の海辺にいる漁師たち、時化模様」これはなかなか傑作。人間が太刀打ちできない自然を描いたとか、なんだけど、まず波の表現すげえ。リアルだ。クールベさんに通じるものがある。しかし思うにクールベさんの絵は、人間にとって得体の知れない自然、という点でなんちゅーか自然の凄みみたいなもの(人間の視点から)を感じるが、ターナーのこれは絵のテーマがそうであってもイメージははっきりしているので、なんか神の視点っぽいですな。うんまあ、どっちもいいよ。「ヘレヴーツリュイスから出航するユトレヒトシティ64号」うむ、デカい絵だ、それに、そろそろ「あの」世界が来そうだぞ。「海と空の習作」キターっ! これはモノクロだが、来ましたよあのターナーの世界が。1925年。50歳。そう、この年齢ぐらいから「あれ」が始まるのだ。「海岸で救難作業をする人々」これも「あれ」だ。空と海の境界もあいまいでヤベエ。「海辺の日没とホウボウ」先の絵もそうだが、水彩でいわさきちひろっぽい。つまりちひろはターナーも参考にしてるんじゃないだろうか。「オステンデ沖の汽船」おおこれぞ! これぞ「あの」ターナー。風景画でありながら、抽象画の感触を持つ。そしてこの時、ターナーの絵は時代を飛び越えて現代アートとしても鑑賞可能となる。私の好きな抽象画家にザオ・ウーキーという人がいますが、このターナーの絵はザオの絵と感触が非常に似ていて、例えばこの絵に、ザオ・ウーキー作、と書いてあっても普通に納得してしまうくらいです。
 
「イタリア-古代への憧れ」というコーナー。まず円形のキャンバスの「キリスト教の黎明(エジプトへの逃避)」晩年風である。「風景タンバリンを持つ女」これも晩年風だが惜しい。ブワブワッとしているのはいいが、何が描いてあるか分かるので印象はイマイチ。そう、ターナーは何が描いてあるのか分からなくなってからが本番だ! あとは何か小さい版画がいっぱい。
 
「山岳 - 新たな風景日を探して」ということで、当時は山岳の絵を描くのは少なかったそうです。でもターナーはやった。「サン・ゴタール山の峠」高所恐怖症にはちょっと厳しい絵だ。これもコーナーの晩年のあたりに注目「古都ブレゲンツの眺め」うむ、「ルツェルン窓越しに見えるピラトゥス山」これはギリギリの感じ、とメモってあるがどんなんだったかな。あとは常設展示でおしまいなのだ。
 
ほとんどが普通の、うまい風景画であるが、その中に「あの」時空を飛び越えてくるターナーがいるのが嬉しいじゃないか。
https://turner2018.com/
 

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2018年5月12日 (土)

プーシキン美術館展(東京都美術館)

「旅するフランス風景画」とのことで、あんまし期待していなかったがナカナカといったところだ。うん、悪くないよ。
 
年代順で、まず「近代風景画の源流」ってことで、最初にガスパール・デュゲって人の「ラティウムの小さな町」うっ……なんかショボいんで先行き嫌な予感がするが、次がおなじみクロード・ロラン「エウロペの掠奪」得意の大画面でまずまずのもん。人物というかここでは事件が小さく描かれ、景色を雄大にってやつだね。さすが理想風景画家。近いところの他の絵も概ねそんなもの。ジャン=バティスト・マルタン「ナミュール包囲戦」なんてのは史実が分からんと、イマイチよく分からない。純粋な風景画ってわけではないのでな。えー次、ジャン=バティスト・フランソワ・バテル「五月祭」。これがフェト・ギャラットいわゆる雅宴画。つまり18世紀フランスのロココ時代のゆるゆる貴族絵画なんだけど、この絵はイマイチ(というか思い出せん)。次のニコラ・ラングレ「森のはずれの集い」。これもさっきよりはいいが……うーん、雅宴画たるもの、もっとさー「貴族でーす」「バカでーす」って感じにしてほしいよなあ。次のジャック・ド・ラジュー「狩猟後の休息」これはなかなかいい雅宴画。おバカではないが、大きめの絵だし、なんたってブランコ。そうそうこれこれ。ブランコがあると雅宴気分がググッと増しますな。それからロココのブーシェが珍しく「農場」なんていう農家の絵なんか描いちゃって……意外とウマい。さすが名が知れてるだけあるな。クロード=ジョゼフ・ヴェルネ「日の出」と「日没」対になっている。どっちもオレンジに染まっていてなかなかだ。あとはユベール・ロベールって人、「廃墟のロベール」って呼ばれてたんだと。だから廃墟の絵な。ニコラ・アントワーヌ・トーネー「アルカディアの牧人たち」デカい絵だ……がまあ普通だ。
 
「自然への賛美」ってコーナー。おなじみカミーユ・コロー「嵐、パ=ド=カレ」は……灰色基調で小さいな。次もコロー「夕暮れ」おお、こっちの方がコローらしい。夕焼けに映える木の細かいシルエットだお。ジュール・コワニエ/ジャックレ・レイモン・ブラスカット「牛のいる風景」おお写実だ。牛がきっちり描いてある。うまいじゃん。クールベさんの「水車小屋」描き方がラフで、原色でない印象派のような作品。うん、やっぱりクールベさんは時代を先取りしてるじゃん。同じクールベさんの「山の小屋」というのもで出ていて、こっちは晩年の代表作なんて書いてはあるが、ちと小品だし普通ですな。
 
「大都市パリの風景画」コーナーだお。いきなりルノワールの「庭にて、ムーラン・ド・ラ・ギャレットの木陰」。例の有名なデカいヤツ……の一部っぽい感じで、実際一部を独立した絵にしたんじゃねーかって思う次第である。ジャン・フランソワ・ラファエリ「サン=ミシェル大通り」は雨上がりのパリの雰囲気よし。エドゥアール=レオン=コルテスの「夜のパリ」も雰囲気もので、ま、このコーナーは絵がどうこうよりもパリの雰囲気を楽しんでくれい、というものですかな。アルベール・マルケ「パリのサン=ミシェル橋」ん、どこかで見たぞ。練馬区立美術館のパリ企画だったかな。平面的でなんとなく覚えている。マルケはもう1枚あるぞ。ルイジ・ロワール「パリ環状鉄道の煙」はデカい。タイトル通り、煙漂う画面だす。いや、悪くないよ。
 
「パリ近郊 - 身近な自然へのまなざし」ってことで、まずはある1枚の絵が解説パネル充実の特別展示。うむ、これが目玉かな。クロード・モネ「草上の昼食」。公園かどこかで紳士淑女がランチ食ってるところ。同じタイトルの、マネの大変有名な絵があるのだ。なぜに有名かというと女が一人裸なもんで、当時はスキャンダル画だった。これにインスパイアされてマネのまねをした……だけじゃなくて、他にも同じようなテーマの絵とか、あるいはロココの雅宴画とかにも影響されて描いたのがモネのコレだ。……が、見た限りではあまりモネ向きの画題ではないと思うぞ。モネはバリバリの印象派で、屋外風景には向いているが、人物にゃイマイチ感が漂う。これは、アレだ、アレに似ている。尾形光琳が俵屋宗達にインスパイアされた「風神雷神図」まあ、あれはまんま劣化コピーで(というか不得手なんだと思う)これとは違うんだけど、自分なりにオリジナルを消化してがんばって描いたってことでは似たようなもんではなかろうか。モネは他にも何点かあり「白い睡蓮」が、例のモネに庭の橋の絵で定番なんで安心して見ていられる、あとは印象派、シスレー3作を手堅く展示。ピサロもあるがイマイチ、セザンヌ「ポントワーズの道」も普通だな。マティスの「ブーローニュの森」はちょいフォーヴ。モーリス・ド・ヴラマンク「小川」いや、好きだよヴラマンク。ゴッホを超えた男。緑が基調でよし。「オーヴェールの風景」も奥行きが感じられてよし。ピカソ「庭の家(小屋と木々)」うむ、ピカソだな。
 
「南へ - 新たな光と風景」ええと……ここはセザンヌが3つほど「庭園の木々」大きめ。「サント=ヴィクトワール山の平野」セザンヌらしい定番。黄色基調。「サント=ヴィクトワール山、レ、ローヴからの眺め」これの解説ではキュビズム誕生のもとになったとかなんとかでまあ分からんでもない絵だ。おっとボナールかなと思ったらボナールの「夏、ダンス」大き目の絵ですな。色がおなじみな調子ですな。ドランのフォーヴもんが2つほど。ヴラマンクは好きだがドランまでくるとちょっと引き気味な私です。ルイ・ヴァルタ「森の小屋」「アンテオールの海」うん、ちょっとよく分からないけど面白い。
 
最後、「海を渡って/想像の世界」いよいよクライマックスだお。ゴーガン「マタモエ、孔雀のいる風景」タヒチ萌えのマタモエじゃ。タヒチもんの中じゃなかなかじゃなかろうか。孔雀がいいよな。しかしだ、次のアンリ・ルソー「馬を襲うジャガー」……な、なんだこれはっ! いや、どう見てもルソーの絵だよ。しかし馬を襲うジャガーって……馬が普通の、というかカワイイ系の顔してて表情も特になくて、それって襲われてねえよ。ジャガーも馬にくっついてはいるが何してるかよく分からない。ジャングルではなく、どう見ても南国植物園でスケールも適当。要するに妙ちきりんな絵なのだが、逆に、それが幻想性を高めている。「素朴派」と呼ばれているルソーだが絵は全く素朴ではなく、ジャングルで馬がジャガーに襲われている絵を描きたい、という動機が素朴でそれを技量も適当にムリヤリ押し通したのである。結果予想外の非日常的な、幻想的な絵画になっちゃった。世の中にはそういう姿勢でヒットを飛ばしたアーティストもいるのだ。だからYouもやりたいことをやっちゃいなYo! えー、あとはドニの「ポリュフェモス」例のドニ。らしい人物。あとは何とかでおしまいなのだ。
 
超ド級の目玉はないものの、まずますのヒットがある。特にルソーにはやられたぜっ。
http://pushkin2018.jp/
 

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2018年5月 5日 (土)

モダンアート再訪(埼玉県立近代美術館)

「ダリ、ウォーホルから草間彌生まで」ということで、福岡市美術館のコレクション。福岡市美術館が工事休館中なんで、その間やってきた。これがなかなか充実している。
 
コーナー分けがしてあり、最初は「夢の中のからだ」ということで幻想的な身体の絵画。いきなりレオナール・フジタ(藤田嗣治)の「仰臥裸婦」例の乳白色を十分に使った裸婦でこりゃなかなか上物じゃありませんか。ミロとシャガールの手堅い絵があり、三岸好太郎「海と陽光」うむ、初めて見る。裸婦ものだな。次、おっとなんかこりゃ見たことのある絵があるぞ。藤野一友「抽象的な籠」。書店でSFの文庫本を見ていると目に入っちゃうその絵画。上を向いて横たわっている女性の体が籠のようになっていて、中に人がいたりする。今調べたらフィリィップ・K・ディックの「ヴァリス」。おお、なんか昔から知ってる、あのインパクトのデカい絵の原画がこれだ! 福岡が持ってたのか……ていうか作者日本人ですかい。それからダリのキリスト教画っぽい「ポルト・リカドの聖母」これ、何度か見てるよな。デルヴォー「夜の通り(散歩する女たちと学者)」これも夜、裸婦、汽車、リーデンブロック博士と定番のデルヴォー要素でできている。
 
次は「不穏な身体」ということで、文字通りあまりキレイじゃない身体。いきなりジャン・デュビュッフェの「もがく」というグチャグチャ描き。巨匠、野見山暁治「人間」も抽象風人間。海老原喜之助「傷身」ちょい抽象的ながら、これは傷だらけだって分かる。痛い。それから練馬区立美術館で個展開催中の池田龍雄「寓話-マン・レイ風に-(綱元シリーズ)」と「傷痍軍人」練馬を見たので分かるが、戦後のやりきれなさ爆発時代の作品だよね。元特攻隊員。河原温「孕んだ女(下絵)」と「朝が来る」日付絵画なんてやる前はこんなヤバい絵を描いていた。いずれも鉛筆画。「孕んだ女」は近代美術館で油彩を見たことがある。いずれも人体なんだが病気らしく肌ブツブツ、「朝が来る」はその上手足も切断され、散乱してて、場所は牢屋かよ。ややマンガ風の鉛筆画で生々しくはないんだが、十分ヤバい。救いもない。でも見てるとクセになる。しかし河原温はこの後コンセプトアートに行ったきり、この路線には戻らなかったな。戻ったのを見たかった。工藤哲巳の立体。イヴ・クラインのクラインブルーで体を使った絵画あり。
 
「身体と物質 九州派・具体・アンフォルメル」というコーナー。福岡なんで九州派なんてのを集めています……ってその存在を初めて知った。しかしどうも私は具体とかアンフォルメルが得意でない。これ何がいいのかなーとか思っちゃう。尾花成春「黄色い風景 No.1」なんてゴミを踏み固めたんかい。山内重太郎「作品5」ううむ、焼け焦げ風。桜井孝身「リンチ」ゴツゴツしてて、立体風でアスファルトまで使ってる。菊畑茂久馬「葬送曲 No.2」赤いシャモジ人間がいっぱい。オチオサム「球の遊泳Ⅱ」文字通り球がいっぱい。んーまあそういう作風だ。おや草間彌生だと思ったらマーク・トビー「収穫」黄色い画面。はあ。草間の無限の網かと思った。白髪一雄「丹赤」出たよアクションペインティングみたいな絵の具大量使い。赤いぜっ。元永定正「作品」これも抽象。なんかこの人はユルい絵本のイメージが強いが、ここでは結構ちゃんとしてる。松谷武判「繁殖65-25」立体風。円の裂け目が目立つヤツ。
 
「転用されるイメージ ポップ:アートとその周辺」。もうオリジナルの何かではなく、広告とかからイメージを持ってきちゃうポップアート。赤瀬川源平「千円札(風倉匠の肖像)」札を描いて偽札にならないギリギリの線で。その風倉匠のパフォーマンス「ピアノ狂詩曲」ピアノを鞭でひっぱたきつつ音も出しつつ破壊するパフォーマンス。1994年のパフォーマンス映像と、使われた鞭とピアノ部品での作品「ピアノ狂詩曲6-97.P3」。パフォーマンスでは最後白い粉まみれになってたが、何だろう。さっき赤シャモジ人間を見た菊畑茂久馬、今度は「ルーレットNo.1」ということでルーレット装置のような造形物。ウォーホルのおなじみ「エルヴィス」。リキテンシュタインの「雲のある風景」は例のドット絵の調子で。ここで草間彌生「夏(1)」「夏(2)」タイトルは普通でも作品は例の草間で、赤地に白水玉のスカルプチュア(ソーセージみたいな形の柔らかいの)がびっしりの立体。いつも通りキモい。アルマンの「呪われた村(光る目)」はガラスケースに人形いっぱいで苦しそう。タイガー立石のややマンガ風。篠原有司男「ドリンク!」ん? どこかで見たような、と思ったら、ラウシェンバーグとジョーンズの複合体のようなもので、イミテーションアートだって。パクリ風じゃないですか。おおっとここで先日原美術館で見た柳幸典「二つの中国」。原にある作品は南北朝鮮だったが、今度は中国と台湾の旗だ。アリが少しずつ運んで、どこまで混ぜ合わせられるのかな。
 
「イメージの消失 抽象と事物」抽象バリバリみたいなのが集まる。なんたって最初はフォンタナのキャンバスを切ったの。「空間概念 期待」ここでは緑の色付きキャンバスだぞ。ロスコ「無題」もう例のロスコです。ふにゃっとした四角が上下二段の。フランス・ステラ「バスラ門Ⅱ(分度器シリーズ)」半円形の分度器っぽいきっちりした抽象画。このコーナーに属するもので。会場の廊下にあるものがあり、一つは山崎直秀「Book1」「Book2」「Book3」これ、一見岩波新書みたいだけど、字がデタラメで読めないというもの。原口典之「無題」パンみたいだけどパンじゃないよ。榎倉康二「予兆のためのコレクション -鉄」刀みたいなだけど刀じゃないよ。どれもそんなもんで。
 
「再来するイメージ」コーナー。再び抽象じゃなくなってきた、というところで。ジグマー・ボルケ「Nessi Has Company Ⅱ」人物というか、なんだ、羽があるから天使か妖精か。辰野登恵子「UNTITLED 94-9」うむ、いつものド抽象じゃなくて丸が並んでおる。横尾忠則「暗夜行路 旅の夜」よく描いてるY字路の1つ。おっと、原美術館でも見たやなぎみわだ。エレベーターガールの写真。ここでは赤い液体に溶けていって。包装紙みたいになってしまうプロセスを4枚組で。金子修の写真。一番奥にバスキアでおしまいなのだ。
 
コレクションの代表作を持ってきた感じなので、なかなか見応えありますね。各時代の特徴を示す作品が多く分かりやすく並んでいるぞ。
http://www.pref.spec.ed.jp/momas/?page_id=382

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2018年5月 4日 (金)

現代美術に魅せられて(原美術館)

一通り見終わったらちょうど学芸員の解説があって、それを聞いたりしてた。それより、前の日に江頭2:50のDVDを借りて見ていて、行った日は大木こだま・ひびきの漫才をウォークマンに仕込んで往復ずっと聴いていたら、なんか頭がおかしゅうなってきてな。本日は以下のような内容となりました。関西人じゃないので関西弁は適当や。
 
「この美術館は昔人が住んでたところだそうや」
「ははー住宅を美術館に改築したんですな」
「設計は有名な建築家で、国立博物館の本館を設計した人らしいで。あっちは宮殿みたいやろ(帝冠様式いうそうです)。でも、こっちはバウハウス風やて」
「風呂屋でっか?」
「バスハウスやない! とにかく今回は収蔵品展。まず入るとレイノーの『アタッシュケース』があるな。3階にあるタイル部屋と同じ人やね。これはアタッシュケースの中にタイルが敷いてあるんや」
「タイルスタイルでんな」
「意味分からん。最初の展示室にはミカリーン・トーマスの『ママ ブッシュ:母は唯一無二の存在』黒人女性のヌード画やけど、作者のお母さんやて。作者も黒人ってことやな。でもかあちゃんの裸描くってのは、なんかやりにくそうやなあ」
「ま、背中なら掻いたげますけどね。痒いって言うから」
「背中掻くのと関係ないがな」
「ほら『かく』でおなじでしょ」
「同じやないやろ! お前、明日絵を描く授業や言うて孫の手持ってくんか?」
「いや、もののたとえで……」
「ピピロッティ・リストの『ラップランプ』ってのがあるな。スタンドから椅子に動画を投影しててな、本来は椅子に人が裸で座って、肌がスクリーンってもくろみだったんやて。でもここのは収蔵品やから座っちゃあかんて」
「椅子だからいいっす、みたいな」
「おもろない。あと加藤泉のちょっとキモい人形があるな。おなじみの作風や。これは口から草生やしてる」
「これ、最初見た時はギョッとしましたよね」
「わしもお前と間違えて、なにこんなところに座ってんねんと」
「ほんとでっか?」
「嘘やがな。廊下行こか。はマリック・シディベってな、アフリカはマリの人やて。黒人主役の日常スナップやな」
「最近の傾向でグローバルなんだそうですね。横浜トリエンナーレみたいなアートイベントもあって、世界中からアーティストが来るみたいやし」
「そやな、うちもグローバル化しよう思うてな、こないだ地球儀買うてきたんですわ」
「あ、世界の勉強ですな」
「でもな、その地球儀どうもおかしいんや。日本がないねんで」
「え? ミスプリント?」
「おかしいなあ思うたら、アメリカもオーストラリアも中国もないねん。よう見たらビーチボールやがな。地球儀にしては安いなあ思うたんやけど」
「あんた地球儀とビーチボール見分けつかんのかい!」
「つかへんのやー」
「ボケとったんか?」
「ボケとんのやー」
「情けないな」
「情けないのやー それよりこっちにアラーキーがあるで」
「荒木経惟ですな。こないなミューズと呼んでた女性にセクハラとパワハラを暴露されましたな」
「まあ芸術家ってなしょーもないやつおるからな。ゴッホもストーカーやったし、ピカソも無類の女好きで、好き放題やってたしな。今回の写真は人じゃなくて、枯れた花やな。まあ人間的にはアレでも、この作品を見る限り、ある種の優れた感性を持って写真を撮っているとは思えるで」
「でももうセクハラが許される時代やないし……生き残れるかは神のみぞ知るですな」
「誰が知ってるって?」
「いや、神様が」
「お前よう神様が知ってるて知ってるな。神様と話でもしたんか?」
「いや、神様は何でも知ってるでしょ」
「三日前の朝、わしが何食べたかも知ってるんか?」
「もちろん知ってるでしょ」
「なんでそんな、しょーもないこと知ってるんや! そんなんわしにとってもどーでもええことやないか」
「いや、でも何でも知ってるって……」
「1階の奥の部屋行こか。クリスチャン・ボルタンスキー。『プリム祭』や。子供達の写真を祭壇のようにしてまんな。写真がピンぼけで、多分これ行方不明の子とか、そんなんかな思うてな」
「さっきのギャラリートークでも今はいない人では、とか何とか言ってましたね。あとプリム祭ってユダヤのお祭りだって」
「あと、こっちはやなぎみわの有名な作品やね。『案内嬢の部屋』制服を着たマネキンのような女達が並ぶ写真でんな。制服を着るだけでそういう役割を与えられてしまうっちゅう、社会に向けたメッセージやね」
「いやー制服の女ってええですな」
「お前何言うてんねん! 今の話聞いとったんか?」
「え? よくないんですか?」
「裸の方がええに決まっとるやないかい!」
「え、そんなこと言ってないでしょ」
「あそこがエルネスト・ネトの立体。ブラジルの人やて。天井から何か垂れている造形でんな。こっちはアドリアナ・ヴァレジョンの絵で『スイミングプール』。これ油彩やけど、プールのタイルの目地が水で揺れている様子をそのまま描いたトリックアートみたいな作品やな」
「私トックリアートが好きです。酒好きやし」
「お前アホか」
「いや、だって2合トックリとか……」
「トックリからそのまま飲むんかい! オチョコもコップも使わんのかい」
「え? そうくるの?」
「とにかくもう2階行くで」
「あ、おなじみ宮島達男のデジタルカウント作品の部屋や」
「お前が、暗いとお化けが出る怖いあかん行けへん言うた部屋や」
「そんなこと言ってへんよ。この前にある仏壇みたいなのは何でしょ」
「森村泰昌の作品『スローターキャビネット』や。仏壇の奥は写真で、ベトナム戦争ん時の有名な写真を大阪と本人の写真を使ってパロディにしたものらしいな。森村泰昌はよく本人が誰かの扮装をして作品にするんや」
「え? 例えば誰です?」
「うーん、フリーダ・カーロとか、マリリン・モンローとか」
「え? 女装だけですか?」
「男装もしとるはずだが忘れた」
「束芋もありますね。なんと『原俊夫氏のために描いた線画』で、和紙に墨ですって。このスカートめくってる娘が目につきますな」
「お前そういうとこしか目が行かんのかい」
「えー違いますか?」
「パンツに目が行くに決まっとるやないか」
「うわ、しょーもない」
「こっちは蜷川美花やな。例によってちょっと毒々しいような花の写真でんな。例の調子だからすぐ分かる」
「こっちには杉本博司の写真の部屋がありますな。『仏の海』って、仏像びっしりでんな。これ三十三間堂ですかね?」
「あれは確か千手観音やろ。これは違うから別のとこやろなあ」
「じゃあ三十二間堂ぐらい」
「三十三間堂って住所やないやろ!」
「隣に動画の部屋がありますな」
「ウィリアム・ケントリッジの『Memo』っていう、紙に乗ってるインクが勝手に動いて作者を困らせるのおもろいな」
「佐藤雅彦の『CALLING ドイツ編』は、風景の中で突然電話が鳴るというシーンがひたすらありますな。電話には結局出たんですかね? そこまで撮ってないし」
「いや、それがアートやで」
「アートなだけにアート(あと)のことはどうでもええと」
「つまらん。奥の部屋行くで。柳幸典『38度線』。タイムリーやな。ちょうど南北交渉したとこやね。色付き砂で作った北朝鮮と韓国の国旗や。間に何か色が混ざったようなケースがあってな。ここで以前アリを飼っていて、巣を作るためにそれぞれの国旗から、砂を少しずつ運んできたんやて。そのまま進んでいれば、二つの国旗は混ざり合ったかも、という作品や」
「アリさん、ありがとうでんな」
「何言うてんねん。そっちは有名な横尾忠則や『戦後』陶板作品やて。イメージは戦後の焼け野原。真ん中に見える人影は子供の頃の美空ひばり。まあ終戦直後のアイドルやな。今で言うところのAKBか」
「いや、全然違うでしょ」
「今のアイドルよう分からん。みな同じや」
「そりゃ味噌もクソも一緒ですな」
「そんなん違うやろー お前味噌とクソ一緒なんか?」
「いや、よく言いますよね」
「お前毎朝トイレ行って味噌出してるんか? 買いに行かんでええな」
「うわ汚い。そんなんちゃいますよ」
「この部屋の奥には奈良美智の小部屋があってな。奈良は部屋の方にアクリル作品もあるけど、こっちの小部屋の方が似合うな」
「奈良さんを丁寧に言うて、オナラさんってどうです?」
「帰れお前は!」
 
他にもいろいろあったが書くの疲れた。
http://www.haramuseum.or.jp/

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2018年5月 2日 (水)

池田龍雄展(練馬区立美術館)

「戦後美術の現在形」というタイトルも付いております。90歳近くでまだ現役であります。元々特攻隊員だったそうで、戦時中のお国のために死ぬ教育を受けてきたが特攻隊の訓練中に終戦。世の中が一気に民主主義化して、本人は軍国主義者の烙印を押されてしまったそうで、権力にさんざん振り回され、頭にこないわけはない。
 
……という反権力の絵画からスタートする。「第0章 終わらない戦後」終戦間もない頃だけでなく、2010年作なんてのもあるので、今も変わらず権力へ向けた目は持っているのだ。「にんげん」は昭和天皇がモチーフで、なんともやりきれなさが伝わってくる。「僕らを傷つけたもの 1945年の記憶」は、敗戦前に爆撃される人々。力で押さえつけられるあまりの恐怖。戦争に勝てばよかったのか? いやいや、それだとこの恐怖を誰かに与えることになるではないか。「大通り」は虫のような戦車の絵。「散りそこねた桜の木」は2010年作。日の丸と死のイメージで実に重たい。
 
「第1賞 芸術の政治の狭間で」ここからまあ時代順。戦後間もない頃の素描があるがパウル・クレーっぽい。あと、この頃の暗いシュールレアリズム系絵画がいくつも並ぶ。この手は板橋区美術館がよく持ってて、時々展示してる感じだな。嫌いじゃないぞ。非常に強い怒りややりきれなさなどの感情が絵に込められていて、しかも手法がシュールときた。なので、時にピカソを超えている絵があると思う次第である。あと、ルポルタージュ絵画といって、現地に取材に行って描いたものも多い。「綱元(《内蔵》シリーズ)」は、どこぞの軍用施設建設反対運動を取材。実は施設ができると金が入る。なもんで、反対運動もトーンダウン気味。しかし、そんなことじゃ、自分達の首を絞めるぞ、という意味で、人の首に綱がくくりつけられてる絵画だ。「10000カウント(《反原爆》シリーズ)」は、水爆実験の被爆海域の魚が調べられるため、網で吊し上げてるというもの。憮然とした魚の表情がよい。「規格品」は巨大な絵画。おぞましき赤い機械から、機械生産のソーセージがどんどん出てくる。不気味な絵だ。
 
上の階へ行く。モノクロで有機的でシュールな構成の絵が並ぶ。池田の絵はよくシリーズがあり、それぞれテーマを持っている。「《化け物の系譜》シリーズ」は、気になった事象を化け物として描いてしまうもの。ポスターにもなっている百目のごとき「巨人」もここだ。「企業」はひたすらグロい装置のごとく。「谷間」は、円筒状の巨大構造物(工場)が町に横たわる。「倉庫A」は、ネズミとの戦い。「現場」は、どこの現場か分からないが、なんかすげえ。「アトラス」は、大陸間弾道ミサイルの驚異。
 
「第2章 挫折のあとさき」戦時中は、軍国主義だったのが、戦後になって急に民主主義になり、おまけに「実は僕、戦争なんて反対だったんでちゅ」とイケシャアシャアと言ってのける輩も出現し、池田は社会派絵画に挫折してしまった。絵のテーマも社会派よりも、内面を向いたものとなっていく。「《禽獣記》シリーズ」は、これも妖怪のようなものだが、先の化け物と違い、社会的な立場の誰かを指しているわけではない。ブリューゲルやボスの奇想画みたいな雰囲気を持っているぞ。「《百仮面》シリーズ」は顔のごとき者を仮面として使ってみよう、という絵画。「《玩具世界》シリーズ」はちょっとグロ目の画面の中に、急に出現する鮮やかな日本の玩具。長男が生まれたんで描いたっぽい。
 
次は「第3章 越境、交流、応答、そして行為の方へ」。とうとう絵も描けなくなり……確かにこの頃の「胎児の夢」なんて絵もあるが、なんか限界な感じがする。で、パフォーマンス活動を開始。「大芸術瞥見函」は大きなサイコロのとような立体。中を覗いて見てみたいができない。「ASARAT橄攬環計画」(「かんらんかんけいかく」と読むようじゃ)は……なんだっけな。オリーブの実を埋めるというのを、本当は地球を一周するように行う計画なんだけど、実際やったのは山の周りを一周。それでも大計画。あと「梵天の塔」というもの。なんか「ハノイの塔」ってゲームあったよね。大きさの違う円盤でできた塔を、ある決まったルールで片側から片側に移動させる。その円盤数が64枚で、移動させるにゃ膨大な時間がかかるが、やるというもの。その計画だの模型だのという、計画そのものが作品。膨大な年月を感じさせる。
 
「第4章 楕円と梵」ということで、絵画に戻ってきた。楕円をモチーフに作品を作り始める。「楕円空間」は一見楕円のデザインっぽいが、よく見ると塗ってある模様が池田の生き物で埋め尽くされていたりする。そして「BRAHMAN」というシリーズ。かなりの数の絵画(それでも一部らしい)が展示されている。これが力作であって、どれも有機的な生命を感じさせる生き物のような、胚のような、妙な造形物群で迫ってくる。広い壁一面にびっしり。これに唸らぬ者はない。
 
「第5章 池田龍雄の現在形」ということで、まず「《箱の中へ》シリーズ」。箱の中に作品が作られる……が、さすがに箱となるとジョゼフ・コーネルが思い出されてしまい、コーネルにはちょっとかなわない。いや、悪くないんだけどね。「《場の位相》シリーズ」になると、もう抽象画だ。とうとうここまで来たのかあ。
 
社会的視点の作品であれ、生命の気配のごとき作品であれ、とにかくいろいろ目を引く。権力が嫌いな人やヒエロニムス・ボスが好きな人は大いに楽しめよう。
https://www.neribun.or.jp/event/detail_m.cgi?id=201802151518677542

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